1975年(昭和50年)11月21日・大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)、これが昭和天皇、最後の靖国神社ご親拝となる。
1975年(昭和50年)、当時の首相三木武夫は8月15日に靖国神社に参拝したが、公用車を使わず、肩書きを記帳せず、玉串料を公費から支払わず、閣僚を同行しないことの4条件を以て、「私的参拝」だと述べた。
このことで首相の参拝は公人か私人かという議論が国会で取り上げられるようになり政治問題化した。
一方で1945年(昭和20)年8月9日深夜の第一回御前会議前会議での昭和天皇の公の席でのお言葉は(『終戦史録』より)
「我が国力の現状、列国の情勢等を観るとき、これ以上戦争を続けることは我が民族を滅亡せしめるのみならず世界人類を一層不幸に陥れるものである。自分としてはこれ以上戦争を続けて無辜の国民を苦しめるに忍びない。速やかに戦争を終結せしめたい。
開戦以来、軍のいう所と実際との間にはしばしば食い違いがあった。現に軍は本土決戦などというけれども九十九里浜の防備さえできていないではないか」
「今日まで戦場にあって陣没し、あるいは殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思う時は、悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災を蒙り、家業を失った者の生活に至りては、私の深く心痛するところである。もちろん忠勇なる軍隊の武装解除や、戦争責任者の処罰などが行われるだろうが、それらの者はみな忠誠を尽くした人々で、実に忍びがたいものがある。しかし今日は忍びがたきを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の時のお心持ちを偲び奉り、自分は涙をのんで、連合国宣言を外相の示す立ち場に立って受諾する提案に賛成する。」という内容の聖断だった。
また同年8月14日の第2回御前会議におかれては(『終戦史録』より)
「陸海空の軍人にとって、武装解除や 保障占領というようなことはまことに堪えがたいことで、その気持ちは自分にもよくわかる。また自分の信頼する臣を戦争犯罪人として出すことは情においてまことに忍びがたい」とおおせられて、落涙を白き御手袋を以て払わせられ、更にお言葉をついで、「しかし日本がまったく無くなるということなく、少しでも種子が残りさえすれば、また復興と言う光明も考えられる。この上戦争を続けては我国は全く焦土となり、国民にこれ以上苦しみを嘗めさせることは自分として実に忍びない。自分は如何になろうとも国民を救いたい。この際は堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、一致協力、将来の回復に立ち直りたい。国民のためになすべきことがあれば、なんでも厭わない、国民に呼びかけるのがよければ、マイクの前にも立とう。皆その気持ちになってやって貰いたい。この際詔書を出す必要もあろうから、政府は早速その起案をするように。」と、諄々として諭された。居並ぶ諸員皆深く頭を垂れ、感泣嗚咽した。
昭和天皇が参拝を行わなくなった理由については、左翼過激派の活動の激化、宮中祭祀が憲法違反であるとする一部野党議員の攻撃など様々に推測されてきたが、近年、富田朝彦元宮内庁長官の残したメモ『富田メモ』(日本経済新聞、2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978年(昭和53年)に極東国際軍事裁判でのA級戦犯14名が合祀されたことに対して不快感をもっていたからとの説が浮上している。
しかし天皇陛下のお言葉は、立憲君主としての公的な立場でのご発言と個人としての私的なご発言とを区別されるべきであり、この「富田メモ」なるものは、その検証が十分になされているとは言い難い。天皇陛下のお言葉を以て、反靖国論や戦犯分祀論を展開することは天皇の政治利用と言えよう。
一人の戦争犯罪者も出したくないという思いで、マッカーサーを訪問されて、戦争の全責任は自分にあると仰った昭和天皇が、靖国にA級戦犯が合祀されたからと言って、それを不快に思われて参拝されなくなったという説は、以上の御前会議のお言葉から推測するに、的を得ていないように思われる。
首相の公式参拝が政治問題化してしまったことが、昭和天皇が参拝をお控えになった理由だとすれば、国家のために命を落とされた方々を国家が正式に慰霊することができるようにならない限り、今後も天皇は靖国を参拝することはできないままである。
『日本の暦』より
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