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2011年1月4日火曜日

今日は何の日? GHQが公職追放を指示

1946年1月4日、GHQが軍人、政治家、財閥関係者、マスコミ関係者などの公職追放を指示。

1946年(昭和21年)に勅令形式で公布・施行された「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」(公職追放令、昭和21年勅令第109号)などにより、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われた。この勅令は翌年の「公職に関する就職禁止、退官、退職等に関する勅令」(昭和22年勅令第1号)で改正され、公職の範囲が広げられて戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象になった。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。

この公職追放によって各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、教育機関(日教組)やマスコミ、言論等の各界で、いわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になるという、公職追放を推進したGHQ、アメリカにとっては大きな誤算が発生してしまう。逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは、旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰した。また、政治家は衆議院議員の8割が追放されたが、世襲候補など身内を身代わりで擁立し、議席を守ったケースも多い。
その後、二・一ゼネスト計画などの労働運動の激化、中国の国共内戦における共産党の勝利、朝鮮戦争などの社会情勢の変化から、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策が転換され、主な対象者は次第に共産主義者やそのシンパとなっていった(逆コース、レッドパージ)。

1951年の第一次追放解除で、および「公職追放令廃止法」により復帰した主な人物。

赤尾敏 - 大日本愛国党総裁、赤城宗徳、足立正 - 王子製紙社長、池田成彬 - 三井合名理事、竹越与三郎 - 枢密顧問官、石井光次郎 - 衆議院議員、石田礼助 - 三井物産代表取締役、石橋湛山 - 政治家、石原莞爾 - 軍人、市川房枝 - 婦人運動家、二代伊藤忠兵衛 - 伊藤忠商事並びに丸紅の基礎を築いた実業家、植村甲午郎 - 農商務官僚、大達茂雄 - 小磯内閣で内務大臣、緒方竹虎 - 朝日新聞主筆、小倉正恒 - 住友の6代目総理事、小野清一郎 - 東京大学法学部教授(刑法)、加藤謙一 - 講談社「少年倶楽部」編集長、唐沢俊樹 - 内務省警保局長、小平浪平 - 日立製作所社長、小林一三 - 阪急電鉄創業者、五島慶太 - 東京急行電鉄社長、渋沢敬三 - 日本銀行総裁、下中弥三郎 - 平凡社社長、正力松太郎 - 読売新聞社長、膳桂之助 - 経済安定本部総務長官、田中正明 - 大日本興亜同盟職員、円谷英二 - 映画監督・特撮監督、堤康次郎 - 西武グループの創設者で総帥・衆議院議員、徳富蘇峰 - ジャーナリスト、灘尾弘吉 - 終戦時の内務次官、鳩山一郎 - 政治家、東久邇稔彦 - 陸軍大将、平泉澄 - 歴史学者、前田久吉 - 大阪新聞社長、町田忠治 - 立憲民政党総裁、松下幸之助 - 松下電器産業社長、松野鶴平 - 立憲政友会幹事長、松本治一郎 - 政治家、松前重義 - 東海大学創設者、三木武吉 - 報知新聞社社長、安岡正篤 - 思想家。大東亜省顧問。


『日本の暦』より


米国占領軍による苛烈な思想と言論の弾圧。その傷は現在でもいたるところに残っています。
日本全土に原爆を落とすことをちらつかせながら、東京裁判という名の見せしめショーを行い、自由な言論活動を妨げ、食糧難に苦しむ日本人にアメを与えて、占領軍に寝返って従順な日本人を国の中枢に起き傀儡としながら、真実を隠し通そうとしたことが、歴史を見るとよくわかります。
国柄や日本人の精神を歪めて、二度と歯向かうことのない日本にするのが目的でした。それは日本国憲法の条文として今でも残っています。

関連記事:
http://jiritsusaisei.blogspot.com/2011/01/blog-post_3237.html
http://jiritsusaisei.blogspot.com/2010/12/dv_10.html

2010年12月15日水曜日

今日は何の日? GHQが神道指令を発令

神道指令(しんとうしれい)とは、1945年(昭和20年)12月15日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が政府に対して発した覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)の通称である。

覚書は信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止し政教分離を果たすために出されたものである。 当初は政教完全分離を目指していたが、1949年(昭和24年)を境に適用条件が大幅に緩和された。
「大東亜戦争」や「八紘一宇」の語の使用禁止や、国家神道、軍国主義、過激なる国家主義を連想するという米国の判断のもと、これらの用語の使用も禁止された。
国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督、及び弘布の廃止を命じた、これが神道指令である。

【靖国神社焼却計画】
ポツダム宣言にしたがって降伏した「有条件降伏」を「無条件降伏」にすり替えた占領軍は、日本の復讐を恐れ、日本人の激しい敢闘精神・抵抗心を根源から打ち崩そうと、靖国神社をはじめ、明治神宮、伊勢神宮、
熱田神社の焼き払いを計画した。靖国神社は焼き払って跡地をドッグレース場にしようと考えた。占領軍は日本の戦争遂行の精神的支柱を神道だと決め付けたのだ。
これに対してはさすがに躊躇があり、マッカーサーは駐日ローマ法王庁・バチカン公使代理のブルーノ・ビッテル神父に意見を求めた。
ビッテル神父は以下のように答えた。
「自然の法に基づいて考えると、いかなる国家も、その国家のために死んだ人びとに対して、敬意をはらう権利と義務があるといえる。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。
無名戦士の墓を想起すれば、以上のことは自然に理解出来るはずである。もし、靖国神社を焼き払ったとすれば、其の行為は、米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残ることであろう。
歴史はそのような行為を理解しないにちがいない。はっきりいって、靖国神社を焼却する事は、米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。・・・(中略)・・・
国家のため死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである。」
マッカーサーはこの意見にに従い靖国神社焼却という暴挙を思いとどまった。
しかし靖国神社などの焼き払いは免れたが、マッカーサーは神道指令を発布した。


『日本の暦』より

2010年12月12日日曜日

今日は何の日?GHQが『忠臣蔵』などの上映を禁止する

1945年、『忠臣蔵』などの仇討ち・心中物の芝居の上演禁止をGHQが指令。
思想統制の一種。


『日本の暦』より


この時期の記事を書こうと思うと悲しい出来事ばかりです。
事実は事実として受け止めたいですが、胸が痛くなります。

2010年12月10日金曜日

DV被害女性と日本国憲法下の日本人

自尊心を奪うもの
心理学では一般に、養育者から過剰な期待をかけられたり、「お前はダメだダメだ」と言われて育った人は、自分がいろいろなことを当たり前にやることができるんだという自信を育てられないという傾向があるといいます。人は、自分でやってみて失敗したり成功したり試行錯誤したりしながら、自分への信頼や自信を育てていきます。それが自分の存在の確かさ、自尊心へとつながっている訳です。

DV被害女性の心理を例に挙げて、日本国憲法下の日本人との類似点を考えてみました。

続きはこちら

2010年12月9日木曜日

今日は何の日? 「真実はかうだ」放送開始

1945年、GHQによる宣伝番組「眞相はかうだ」放送開始。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策の一環として、昭和20年(1945年)12月9日より10回にわたりNHKラジオ第1放送及び第2放送で同時放送された宣伝番組。

「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に対する罪、現在及び将来の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」を眼目として開始され、「大東亜戦争」という言葉の抹殺及びそれに代る「太平洋戦争」という言葉の導入によってそれが持つ意味、価値観が入れ替えられることとなった。

真実の中に織り交ぜられた虚偽等々の手法が用いられたこれらの番組の思想は、プレスコードやラジオコードなどのGHQの指令により言論統制されていたたが、これを批評した雑誌の対談記事は、民間検閲支隊(CCD)による検閲により「占領政策全般に対する破壊的批判である」という理由で全文削除されている。


『日本の暦』より

2010年12月6日月曜日

今日は何の日? GHQ、近衛・木戸幸一ら9名を戦犯容疑で逮捕指令

1945年(昭和12年)12月6日マッカーサー指令部は、第4次逮捕命令で、次の9名に対する追加指令。
近衛文麿(元首相)、木戸幸一(元内大臣)、酒井忠正(元貴族院副議長)、大島浩(元駐ドイツ大使)、大河内正敏(元理研所長、貴族院議員)、緒方竹虎(元国務省)、大達茂雄(元内相)、伍堂卓雄(元商相)、須磨弥吉朗(元スペイン公使)


『日本の暦』より



戦後国内的には戦犯とされた人たちの名誉は回復されていますが、国際的にはサンフランシスコ条約の条項の中で戦犯として扱われています。
これを破棄しない限りは、これらの人の名誉は穢されたままです。
条約の一部破棄はこれまでもやれる機会はあったのですが、それをやろうとする政治家がいなかったのでしょうか?

2010年11月29日月曜日

今日は何の日? 憲法記念日

1890年、大日本帝国憲法が施行。これにより第1回帝国議会が開会。

『日本の暦』より

今日が本当の憲法記念日ですね。
一般に言われている憲法記念日は大日本帝国憲法を改正した日なので、「憲法改正の日」というのが妥当ではないでしょうか?

日本国憲法の改正に関しては無効の理由がたくさん列挙できます。

  1. 最高規範・根本規範である規範国体に抵触する改正は認められないとする、改正限界超越による無効。
  2. ヘーグ陸戦条約違反。
  3. 軍事占領下における典憲の改正の無効性。そもそもポツダム宣言は日本軍の無条件降伏が目的で、日本国の無条件降伏ではないのだから、占領軍の行った全部占領自体が違反行為
  4. 帝国憲法七十五条違反。国家の変局時に改正を行うことを明確に禁止している。
  5. 典憲の改正義務の不存在。ポツダム宣言にも降伏文書にも憲法の改正を義務づける規定がなかった。
  6. 法的連続性の保障声明違反。マッカーサー声明にある「完全な法的連続性」とは実体がかけ離れている。マッカーサー自らががこれに違反している。
  7. 根本規範堅持の宣明。ポツダム宣言受諾日の詔書で正統憲法および正統典範の上位にある規範国体を堅持することを国家の要諦として宣明していた。
  8. 憲法改正発議大権の侵害。改正大権は天皇大権であったにも関わらず、GHQと占領下政府が改正案を私議し改正大権を簒奪した。
  9. 詔勅違反。「粉更を試みること」を禁止することが明確にうたわれている。
    改正条項の不明確性。憲法の全面的な廃止や停止は認めていない。通常は、この条項を廃止、改正するという形をとるもの。
  10. 憲法としての妥当性と実効性の不存在。例えば朝鮮戦争のときに日本は再軍備をしている。この時点で九条の実効性は消失している。たった3年ほどしか九条は守られていなかったことになる。
  11. 政治的意思形成の瑕疵。改正過程において、プレスコード指令、神道指令、言論統制などが行われて、臣民は政治的な意思形成を行うことができなかった。表現の自由を保障した帝国憲法にも違反している。
  12. 帝國議会審議手続きの重大な瑕疵。審議が不十分な上、GHQが帝國議会の両議会の建議権の行使を妨げ、その不行使を強要した。

実際に不具合の多い日本国憲法です。
外国の暴力によって制定されたものでもありますから、一旦元に戻して改正手続きを行うのが良いのではないでしょうか?

2010年10月8日金曜日

今日は何の日? 教育勅語の禁止

教育勅語を読んだことがありますか?
祖父母の世代はみんな暗記していた教育勅語。
改めて読んでみると、ごく当たり前のことが簡潔に書かれていて納得する内容です。

以下、『日本の暦』のコンテンツから。

大東亜戦争後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が、教育勅語が神聖化されている点を特に問題視しとことにより文部省は「教育勅語及び詔書等の取扱いについて」(昭和21年10月8日文部事務次官通牒)と題する通達により、教育勅語を教育の根本規範とみなすことを止め、国民学校令施行規則も改正して、四大節の儀式で教育勅語を読み上げることも廃止された(昭和21年10月9日文部省令第31号)。
奉読(朗読)と神聖的な取り扱いを行わないことを通達した。

翌1947年(昭和22年)には教育基本法(旧教育基本法)が公布・施行されて教育の基本に据えられ、学校教育から教育勅語は排除された。さらに、1948年(昭和23年)6月19日には衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」、参議院で「教育勅語等の失効確認に関する決議」が、それぞれ決議されて、教育勅語は学校教育から排除・失効されたことが確認された。


補足

戦前の日本の憲法には、この教育勅語が含まれていたいたという考え方があります。
これは憲法総体という考え方で、大日本帝国憲法、皇室典範、五箇条の御誓文、教育勅語、さらには聖徳太子の時代にできた十七条憲法までを含んだ、成分化されたものと、文章になっていないルールまでもを含んだ規範全体を憲法として認識する考え方です。
憲法はいきなり取って付けたような法律ではなく、その国が育んできた国柄、国の在り方を表すものですから、憲法総体という考え方がしっくりくると思います。

2010年10月4日月曜日

今日は何の日? 自由の指令が発令される

1945年、GHQ から日本政府に出された指令で、「内務大臣らの罷免、思想・言論規制法規の廃止、特高警察の廃止、政治犯の釈放等」といった内容となっている。これを通達された東久邇宮首相は、この内容の実行は不可能として辞職し(10月5日)、10月9日幣原喜重郎内閣が成立した。
その後、自由の指令の内容は逐次実行に移され、特高警察は10月6日廃止され、(また前述の通り新聞紙等掲載制限令も10月6日廃止)10月10日政治犯の釈放が行われた。その後も、国防保安法・軍機保護法・言論出版集会結社等臨時取締法などが10月13日廃止、治安維持法・思想犯保護観察法などが10月15日廃止されるなど、思想・言論に関する統制は急速に廃止されていった。
(註:特別高等警察とは、大日本帝国憲法下の日本で共産主義・社会主義運動のほか、全ての反政府的言論・思想・運動を弾圧したとされる秘密警察。略称は「特高警察」または「特高」。)

物事に良い面も悪い面もあるものです。
自由に活動できるありがたさもあれば、自由だからと思想犯が集まったりする恐ろしさもあります。
本来ならば日本人が自ら考えて、悪法を正しい良い法律は残すということが必要でしょう。
自由の名の下で占領軍によって発せられた指令。
自分で決められないのはかえって不自由じゃないかと思います。

2010年9月28日火曜日

今日は何の日? 宮沢俊義「ポツダム宣言ニ基ク憲法、同付属法令改正要点」

1945年9月28日、宮沢俊義東大教授が外務省で憲法改正問題について講演した。明治憲法のもとでも、十分、民主主義的傾向を助成しうると論じ、明治憲法の手直しで、ポツダム宣言の精神を実現して行くことが可能だとの見解を示した。この時の宮沢の見解は、のちに自身が主要メンバーとなる憲法問題調査委員会の審議や「憲法改正案」(乙案)に反映されている。 宮沢俊義は日本国憲法成立の説明理論として、八月革命説を提唱した憲法学者ですが、占領中には革命などは起きていないこと、公職追放を恐れて持論を曲げて、GHQによって作られた日本国憲法を是認する立場に変節したのではないかとも言われている。


戦後何度も日本国憲法が憲法としては無効であるという声が出ています。調べてみると制定手続きの問題や法理論的に無効であるという理由がたくさんあるんですね。
現在では、日本国憲法を是認して何としてでも改正してはならないという護憲派、日本国憲法を是認した上で一部を修正しようとする改憲派、そもそも日本国憲法が無効だとする無効派の3つの集団に分かれていますが、戦後体制を是とする護憲派・改憲派と戦後体制が占領体制であることからそれを否とする無効派の2つの集団に分かれているという見方もできます。

2010年9月27日月曜日

今日は何の日? 昭和天皇が初めてマッカーサーを訪問した時の話

9月27日午前9時50分、昭和天皇を乗せた車がアメリカ大使館公邸に向かって皇居を出発した。
シルクハット、モーニングで正装した昭和天皇の表情は、同行した通訳は「非常に厳しいお顔だった」と回想している。
作家の工藤美代子さん「まず側近は、生きて帰れるかどうか心配したんですね。陛下は、決死の覚悟で乗り込んだわけです。日本の運命と自分自身、皇族の運命がかかっていましたからね」。

午前10時、車は、マッカーサーの待つアメリカ大使公邸の門をくぐった。大使公邸の玄関には、マッカーサーの姿はなく、出迎えたのは2人の副官だけだった。マッカーサーは、この時、出迎えも見送りもしないと決めていたのである。昭和天皇は、同行したくない大臣などと次の間で別れ、通訳と二人だけで奥の部屋に向かった。

写真撮影のあと、2人の会見が始まった。その場で、どのような会話が交わされたのか、日米両国の政府は、未だに何も発表していない。しかし、マッカーサーは、回想記にこの日の模様を記している。

「天皇の話はこうだった。

『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。
あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』

――大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。
私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)

35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は変わっていた。
マッカーサーは、予定を変えて、自ら昭和天皇を玄関まで送った。マッカーサーにとって、最大の好意の表れだった。

翌日、日本の新聞は、昭和天皇とマッカーサーの会見を一斉に報道したが、写真は、不敬にあたるとして掲載が禁じられた。GHQは、直ちに禁止処分を取りやめさせて、写真の掲載を指示した。会見の翌々日、写真は、新聞の一面に掲載された。そして、日本中の人々に衝撃を与えた。作家高見順は「かかる写真は、誠に古今未曾有」と怒りをあらわにした。昭和天皇とマッカーサーの記念写真は、日本の国民に、あらためて敗戦を実感させるものだったのである。

2010年9月22日水曜日

ラジオコードの話

『日本の暦』は学校の授業で教わることの少ない事柄を集めているので、集めた歴史上の出来事は日露戦争以降の戦争に関わることが多くなっています。

米国占領軍は日本を戦争ができない国にするため、2度と歯向かってこないようにするため、あらゆる手段を講じて日本を封じ込める政策を展開していきます。
その一環が「ラジオコード指令」です。
1945年(昭和20年)9月22日に、連合国に対する批判を封じ込めるため、連合国に対する批判や動静に関する報道が禁止されました。
日本人には言論の自由がなかったんですね。

ちなみに、よく「国際連合(国連)」と表現されていますが、国連の正式名称はUnited Nations(連合国)です。言葉一つで印象が随分と違います。
国連という呼称を用いると、あたかも国際的な中立機関のような印象を受けますが、もともとは日独伊の枢軸国と戦うための組織で、日本は敵国であるという敵国条項(国連憲章第53、107条)が定められています。
1995年の国連総会でこれらの条項を削除する決議案は賛成多数で可決されていますが、批准されていないために未だに残っている条項です。
敵国条項では、連合国の敵国であった日本などの国が再び侵略行為(と見なされる)を行った場合は、他の国は安保理の承認なしに武力行使ができると規定しています。
ポツダム宣言を受諾し、日本人に主権のない中で所謂「日本国憲法」が制定され、サンフランシスコ講和条約により日本は主権を回復しました。この所謂「日本国憲法」の9条には「一切の交戦権を認めない」と書かれています。


交戦権というものの中には宣戦布告し戦争を開始することに始まって、講和によって戦争を集結するまでの一切の権利が含まれていると解釈できます。
憲法制定からサンフランシスコ講和条約の締結という時間軸を考えたときに、所謂「日本国憲法」には講和条約を締結する力はなかったと考えることもでき、ここに大きな矛盾を感じないわけにはいきません。


2010年9月20日月曜日

今日は何の日? 教科書の墨塗り

1945年9月20日、教科書の墨塗りから始まった日です。
文部省はこの日に次官通牒「終戦ニ伴フ教科用図書取扱方ニ関スル件」を出し、戦前的な事柄が書かれていた教材の全部又は部分の削除を指示し、教科書の墨塗りが行われました。
当時はGHQにあがなうことができない状況でしたので、腑に落ちない、何とも情けない作業であったことでしょう。
どんな民族や国にもそれぞれの歴史や伝統があって、その中で人々の価値観が形成されていきます。
当時はGHQによる情報や思想の統制が敷かれて、教科書だけではなく、放送や新聞、個人の手紙までが検閲の対象にされました。何かにつけて自由を謳うアメリカですが、敗戦国の人々の自由はなかったんですね。
戦後60年以上がたって、多くの日本人がこの体制の中で、元々あったのとは違う価値観をなんとなく受け入れているのかもしれません。そしてそれに疑問も持たないで生きている。
戦争に負けることは、その時に多くの人の命が失われることだけではなく、後世の人々の価値観まで変えてしまうんですね。
今日はそんな事を考えました。