日本が日本であるために Headline

2010年11月30日火曜日

今日は何の日? 世界初のオートフォーカスカメラ

1977年(昭和52年)に小西六写真工業(当時)が世界初の自動焦点(オートフォーカス)カメラコニカC35AFを発売。「ジャスピンコニカ」呼ばれ、人気を博した。
カメラの日とされている。


『日本の暦』より



デジカメの時代になってからカメラに興味を持つようになりましたが、少し古いカメラで遊んでみたいと最近思います。
このカメラ、使ったことがありますか?
触ってみたいです。

2010年11月29日月曜日

今日は何の日? 憲法記念日

1890年、大日本帝国憲法が施行。これにより第1回帝国議会が開会。

『日本の暦』より

今日が本当の憲法記念日ですね。
一般に言われている憲法記念日は大日本帝国憲法を改正した日なので、「憲法改正の日」というのが妥当ではないでしょうか?

日本国憲法の改正に関しては無効の理由がたくさん列挙できます。

  1. 最高規範・根本規範である規範国体に抵触する改正は認められないとする、改正限界超越による無効。
  2. ヘーグ陸戦条約違反。
  3. 軍事占領下における典憲の改正の無効性。そもそもポツダム宣言は日本軍の無条件降伏が目的で、日本国の無条件降伏ではないのだから、占領軍の行った全部占領自体が違反行為
  4. 帝国憲法七十五条違反。国家の変局時に改正を行うことを明確に禁止している。
  5. 典憲の改正義務の不存在。ポツダム宣言にも降伏文書にも憲法の改正を義務づける規定がなかった。
  6. 法的連続性の保障声明違反。マッカーサー声明にある「完全な法的連続性」とは実体がかけ離れている。マッカーサー自らががこれに違反している。
  7. 根本規範堅持の宣明。ポツダム宣言受諾日の詔書で正統憲法および正統典範の上位にある規範国体を堅持することを国家の要諦として宣明していた。
  8. 憲法改正発議大権の侵害。改正大権は天皇大権であったにも関わらず、GHQと占領下政府が改正案を私議し改正大権を簒奪した。
  9. 詔勅違反。「粉更を試みること」を禁止することが明確にうたわれている。
    改正条項の不明確性。憲法の全面的な廃止や停止は認めていない。通常は、この条項を廃止、改正するという形をとるもの。
  10. 憲法としての妥当性と実効性の不存在。例えば朝鮮戦争のときに日本は再軍備をしている。この時点で九条の実効性は消失している。たった3年ほどしか九条は守られていなかったことになる。
  11. 政治的意思形成の瑕疵。改正過程において、プレスコード指令、神道指令、言論統制などが行われて、臣民は政治的な意思形成を行うことができなかった。表現の自由を保障した帝国憲法にも違反している。
  12. 帝國議会審議手続きの重大な瑕疵。審議が不十分な上、GHQが帝國議会の両議会の建議権の行使を妨げ、その不行使を強要した。

実際に不具合の多い日本国憲法です。
外国の暴力によって制定されたものでもありますから、一旦元に戻して改正手続きを行うのが良いのではないでしょうか?

2010年11月28日日曜日

読書録 - 食の堕落と日本人 その2

第2章 日本の食の堕落と崩壊 

ナイフとフォークが使えない西洋人がいたら、さぞかし奇異なことだろう。当人だって恥ずかしいだろうし、周囲から見たら「どんな育ち方をしたのだろう」と思うに違いない。箸の使えない日本人だって同じことである。
(中略)

続きはこちらを。

『日本の暦』の写真 古い横浜の表情

『日本の暦』に収録されている写真です。
この写真は関内の大桟橋近くで撮影しました。この辺りはレンガ造りの建物が多く少し前の横浜の表情が見られます。みなとみらいとは対照的な、どことなくしっとりとした街の表情です。
私はどちらかといえば、静かで落ち着いた感じがするこちらの横浜が好きです。

誰にでも簡単にできる土作り!

もう一つブログからの記事です。

誰にでも簡単にできる土作り!

家庭菜園などに興味のある方は是非チェックしてみてください。

2010年11月27日土曜日

大東亜戦争とは何だったのか?

東京近現代史研究所の落合先生の講座です。
大東亜戦争をスターリンの独ソ戦の東部国境工作としてみる新しい歴史観。スターリンは独ソ戦に備えて東部国境の反共勢力の無力化、米国の取り込み、ドイツ軍のロシア奥地への誘導の三戦略を立てて実行し、ナチス独を滅ぼした。この歴史観で第二次大戦の謎はみな解決できる。
ソ連とナチスの争いが大東亜戦争の起点になったという視点。

東京近現代史研究所の落合先生の講座は目黒近代史研究会などで聴くことができます。とても敷居の低い勉強会で、大学生から年配の方まで幅広い人が参加しており、みなさんとても熱心です。

お近くの方は一度参加してみてはどうでしょうか?

参考リンク 
東京近現代史研究会
目黒近現代史研究会

2010年11月26日金曜日

お箸のこころ

箸の語源

  • 大和言葉の「は」 物の両端、物と物との境目
  • 大和言葉の「し」 物をつなぎ止める、固定する、固着する、静止するなどの意

この二つの言葉を組み合わせた「はし」ということばは、向こうとこちらの二つの世界をつなぐ橋渡しの役目を持つ道具につけられたものだそうです。

続きはこちらを。

2010年11月25日木曜日

今日は何の日? 三島事件(盾の会事件)

三島事件(盾の会事件)は、小説家・劇作家の三島由紀夫 が、占領憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。

午前11時過ぎ、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした後割腹自殺した、45歳没。
決起当日の朝、担当編集者(小島千加子)の手に渡った『豊饒の海』第四部『天人五衰』最終話(1970年夏にはすでに結末部は脱稿していたが、日付は11月25日と記載)が最後の作品となった。戒名は、彰武院文鑑公威居士。現在、忌日は、三島由紀夫研究会による憂国忌(主に九段会館)をはじめ、全国各地で民族派諸団体が追悼の慰霊祭を行っている。

自衛隊員たちに撒いた檄文には、戦後民主主義と日本国憲法の批判、そして日米安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛隊の国軍化を促す内容が書かれていた。日本国憲法第9条第2項がある限り、自衛隊は「違憲の存在」でしかないと見ていた三島は、檄文のなかで自民党の第9条第2項に対する解釈改憲を「日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなすもっとも悪質の欺瞞」と断じていた。演説で、三島は自衛官らに「諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫した。

【改憲論】
三島が自衛隊を違憲だとし、政府の「解釈改憲」を批判したのは以上の論点による。

三島が没年に著した『問題提起(日本國憲法)』では、日本国憲法第9条は「敗戦国日本の戦勝国への詫証文」であると断じている。そして同条第2項では自衛権・交戦権およびいかなるすべての戦力の所有を否定しており、それを遵守すれば日本は「国家として死ぬ」しかないと三島は考えた。

さらに、改憲に当たっては同条第2項だけを削除すればよい、という意見に対しては「第九条第一項の規定は、世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべき」はずなのに日本国憲法だけがそれを謳うのは「不公平不調和」であり、「敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう」と批判し、第9条すべての削除を主張した。また同書では、改憲にあたっては第9条のみならず第1章「天皇」の問題と、第20条に関する神道の問題と関連させて考えなければ日本は独立国としての体面を回復できず、アメリカの思う壺にはまるだけであると警告している。

【自衛隊論】
三島は、檄文で、「自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった」と訴えた(同様の趣旨は『問題提起』でも示されている)。そして、「政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう」と説き、前述のように前年の国際反戦デーの際に治安出動がおこなわれなかったことに憤った。

檄文では、「諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。…アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば…自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう」とも警告した。

『文化防衛論』では、天皇が自衛隊に対し儀仗を受けることと連隊旗を下賜することを提言し、自衛隊の名誉回復を主張していた。

このように、三島が自衛隊に望んでいたことは、

1.自衛隊の名誉回復
2.日米安保体制からの脱却と自主防衛
の2点に集約される。

『日本の暦』より

2010年11月24日水曜日

食の堕落と日本人

厳しいことがビシバシと書かれている小泉武夫さんの著書「食の堕落と日本人」 
第1章 日本食を食べない日本人は堕落するを読んで

詳しくはこちらを。
読書録 - 食の堕落と日本人

ニッポン人を楽しもう!

別のブログから。

とびっきりニッポン人を楽しもうよ!


うけひのもり学園という教育機関のホームページを見つけたので書いた記事です。

2010年11月23日火曜日

今日は何の日? 新嘗祭

「天皇が新穀を天神地祇に勧めて神を祀り、自らも食す」。農業を中心とした社会において重要な収穫祭。現在の祝日にも名を変えて残っている(勤労感謝の日)。元々は11月の第2の卯の日に行われた行事。
天皇陛下が,神嘉殿において新穀を皇祖はじめ神々にお供えになって、神恩を感謝された後、陛下自らもお召し上がりになる祭典。宮中恒例祭典の中の最も重要なもの。天皇陛下自らご栽培になった新穀もお供えになる。
戦後は皇室典範からこの儀式は除外されたが、各地の神社での新穀感謝の祭事は続いている。


Love2Nipponブログの関連記事
http://love2nippon.blogspot.com/2010/09/blog-post_23.html

『日本の暦』より

日本は稲作の国ですね。古事記には天照大御神が稲穂を持っている姿が書かれています。
天皇陛下のおことばにも、森と田んぼに言及されているものが多く、持続可能な自然と人間との共存を強調されています。
また米は穀物の中では最も栄養が豊富で保存がきくという特徴もあります。
森林と稲作の技術やそれに関連する文化や伝統がもっと世界の人々に知られるといいかもしれません。

2010年11月22日月曜日

今日は何の日? 大隈重信の始球式

明治41年(1908年)11月22日

アメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の試合における大隈重信の始球式は記録に残っている最古の始球式とされている。
大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、早稲田大学の創設者、総長、政治家である大先生の投球をボール球にしてはいけないと考えた早稲田大学の1番打者がわざと空振りをしてストライクにした。
これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、始球式の投球をボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった。

『日本の暦』より

2010年11月21日日曜日

今日は何の日? 天皇皇后両陛下、最後の靖国神社へのご親拝

1975年(昭和50年)11月21日・大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)、これが昭和天皇、最後の靖国神社ご親拝となる。

1975年(昭和50年)、当時の首相三木武夫は8月15日に靖国神社に参拝したが、公用車を使わず、肩書きを記帳せず、玉串料を公費から支払わず、閣僚を同行しないことの4条件を以て、「私的参拝」だと述べた。
このことで首相の参拝は公人か私人かという議論が国会で取り上げられるようになり政治問題化した。

一方で1945年(昭和20)年8月9日深夜の第一回御前会議前会議での昭和天皇の公の席でのお言葉は(『終戦史録』より)
「我が国力の現状、列国の情勢等を観るとき、これ以上戦争を続けることは我が民族を滅亡せしめるのみならず世界人類を一層不幸に陥れるものである。自分としてはこれ以上戦争を続けて無辜の国民を苦しめるに忍びない。速やかに戦争を終結せしめたい。
開戦以来、軍のいう所と実際との間にはしばしば食い違いがあった。現に軍は本土決戦などというけれども九十九里浜の防備さえできていないではないか」
「今日まで戦場にあって陣没し、あるいは殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思う時は、悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災を蒙り、家業を失った者の生活に至りては、私の深く心痛するところである。もちろん忠勇なる軍隊の武装解除や、戦争責任者の処罰などが行われるだろうが、それらの者はみな忠誠を尽くした人々で、実に忍びがたいものがある。しかし今日は忍びがたきを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の時のお心持ちを偲び奉り、自分は涙をのんで、連合国宣言を外相の示す立ち場に立って受諾する提案に賛成する。」という内容の聖断だった。

また同年8月14日の第2回御前会議におかれては(『終戦史録』より)
「陸海空の軍人にとって、武装解除や 保障占領というようなことはまことに堪えがたいことで、その気持ちは自分にもよくわかる。また自分の信頼する臣を戦争犯罪人として出すことは情においてまことに忍びがたい」とおおせられて、落涙を白き御手袋を以て払わせられ、更にお言葉をついで、「しかし日本がまったく無くなるということなく、少しでも種子が残りさえすれば、また復興と言う光明も考えられる。この上戦争を続けては我国は全く焦土となり、国民にこれ以上苦しみを嘗めさせることは自分として実に忍びない。自分は如何になろうとも国民を救いたい。この際は堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、一致協力、将来の回復に立ち直りたい。国民のためになすべきことがあれば、なんでも厭わない、国民に呼びかけるのがよければ、マイクの前にも立とう。皆その気持ちになってやって貰いたい。この際詔書を出す必要もあろうから、政府は早速その起案をするように。」と、諄々として諭された。居並ぶ諸員皆深く頭を垂れ、感泣嗚咽した。

昭和天皇が参拝を行わなくなった理由については、左翼過激派の活動の激化、宮中祭祀が憲法違反であるとする一部野党議員の攻撃など様々に推測されてきたが、近年、富田朝彦元宮内庁長官の残したメモ『富田メモ』(日本経済新聞、2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978年(昭和53年)に極東国際軍事裁判でのA級戦犯14名が合祀されたことに対して不快感をもっていたからとの説が浮上している。

しかし天皇陛下のお言葉は、立憲君主としての公的な立場でのご発言と個人としての私的なご発言とを区別されるべきであり、この「富田メモ」なるものは、その検証が十分になされているとは言い難い。天皇陛下のお言葉を以て、反靖国論や戦犯分祀論を展開することは天皇の政治利用と言えよう。

一人の戦争犯罪者も出したくないという思いで、マッカーサーを訪問されて、戦争の全責任は自分にあると仰った昭和天皇が、靖国にA級戦犯が合祀されたからと言って、それを不快に思われて参拝されなくなったという説は、以上の御前会議のお言葉から推測するに、的を得ていないように思われる。
首相の公式参拝が政治問題化してしまったことが、昭和天皇が参拝をお控えになった理由だとすれば、国家のために命を落とされた方々を国家が正式に慰霊することができるようにならない限り、今後も天皇は靖国を参拝することはできないままである。

『日本の暦』より

2010年11月20日土曜日

和食について

外国の友人たちと食の話で盛り上がることがあります。命を維持するための食ですから世界の誰もが関心のあることなので当然でしょうか。

安全保障の話になると、軍事を真っ先に持ってくる人もいますが、最も大事なのは食糧ですね。ラバウルが攻撃されなかったのも、強固な地下要塞を作って完全な食糧自給体制を築いていたからですし、多くの日本兵が亡くなった大きな原因は食糧補給路が断たれた結果の餓死でした。

現在、PTTについての議論が盛り上がっていますが、自由貿易を推進しようという流れが押し寄せています。政治家や評論家の中には、この自由貿易が良いことであると思っている人もかなりいます。しかし、食糧に関しては、それが世界のどこでも均等に生産できないこと、お金がなければ買えないこと、戦争や紛争、天災、気候変動によって生産量が不安定なこと、穀物メジャーのような生産から流通までを独占する存在など、食糧の確保を不安定にする要因はたくさんあります。

日本は食糧自給率が低い国です。お金があっても、シーレーンなども補給路が確保できても、前述の不安定化要因がなくなるわけではありません。
占領体制の中で日本の自給率を下げる施策があったことはすでに知られていることですが、現在の自由貿易体制も自給率をを下げる力として働く可能性があります。そんな中で日本人は食糧を確保する努力を続けなくてはなりません。

『ラジオ版学問のすすめ』という番組は知っていますか?
その中に和食、農業、食糧自給について話している番組があったのでご紹介します。
この番組は東京農業大学名誉教授の小泉武夫氏が面白い話をしています。
http://pod.jfn.co.jp/susume/dl/susume_vol236.mp3

2010年11月19日金曜日

今日は何の日?はお休み、その代わりに・・・

別のブログのご案内です。
『読書録 - 大西郷遺訓』という本が面白かったので、その本の紹介を書いてみました。

2010年11月18日木曜日

今日は何の日? GHQ、航空機の研究や開発を禁止する

1945年(昭和20年8月15日)、太平洋戦争はわが国の無条件降伏によって終結した。終戦によってわが国は連合国軍の占領下におかれ、旧陸海軍、旧財閥の徹底的な解体が開始された。連合軍は次々と航空政策を打ち出した。まず、同年8月24日、日本国籍のいっさいの航空機は飛行を禁止された。ついで同年9月2日、連合軍総司令部(GHQ)の覚書によって、日本政府は、飛行場およびすべての必要な航空保安施設を現状のまま連合軍に引き渡すように命ぜられた。さらに、同年9月22日、「降伏後の日本に関する米軍の最初の政策」が発表され、「武装解除並ニ軍国主義ノ抹殺」という一項によって、3ヶ月の間に旧陸海軍所属の軍用機、民間機は徹底的に破壊され、つづいて24日には、民間航空機および部品などの生産禁止が指令された。

以上の措置の総まとめとして同年11月18日、GHQは12月31日限りで航空機の生産・研究・実験をはじめとした一切の活動を禁止する覚書を発表し、日本
の飛行機は模型飛行機すら飛ばすことができなくなった。また、運輸省航空局も同年の12月31日をもって廃止され、中央航空研究所、東京帝大航空研究所なども翌年1月までにことごとく廃止された。終戦間近には、米軍の空襲によって多くの航空機工場は決定的な大打撃を受けており、すでに瀕死状態あった航空機工業だったが、これすら占領軍によって完全に葬り去られたのであった。そのうえ、財閥解体によって、航空機を生産していた会社のほとんどが複数の会社に分割され、技術者も分散していった。さらに決定的だったのは、それまで航空機工業を支えていた陸海軍が消滅してしまったことである。

対日講和条約の発効を間近にひかえた1952年(昭和27)年4月9日、GHQは「兵器、航空機の生産禁止令」を解除し、許可制に改める旨、通告した。これによって日本の航空機工業は自主的に航空機の生産と研究を
再開することができるようになった。
復興をめざす政府は、航空再開と同時に、通産省通商機械局に航空機生産行政に関する特別調査会を設け、昭和27年8月には重工業局に航空機課が新設された。これらの一連の動きのなかで、同年7月、「航空機製造法」が制定・公布された。そして8月には、同施行令、ついで昭和28年1月には同施行規則が制定・施行され、ここに航空機工業再開への道が開かれた。

『日本の暦』より

現在でも制空権が自由にならない日本。
漁業権が邪魔をして海上自衛隊も有事の際に自由に軍港を設けることができないので、制海権も自由になりません。この漁業権も占領政策の一環として導入されたものです。
また自衛隊も日米安全保障条約に縛られており、日本が独自の判断で自衛隊を動かすこともできません。
依然として占領体制の中に置かれているようです。

2010年11月17日水曜日

『日本の暦』の写真 汽車道から

『日本の暦』の写真の紹介です。
どの季節だったか忘れてしまいましたが、屋形船なので夏でしょうか。
桜木町からワールドポーターズの前を通って赤レンガ倉庫へ向かうに行く汽車道で撮影したものです。
屋形船から聞こえるカラオケがかなりの大音量で、酔っ払って熱唱している歌声がよく聞こえます。中にはかなり音程が外れた人もいて、汽車道を歩いている人が大笑いしている光景がなんとも可笑しいです。

2010年11月16日火曜日

今日は何の日? 奄美群島日本復帰

今日は陛下が記念式典の出席された際のお言葉の紹介です。

【おことば】
平成15年11月16日(日)(奄美振興会館)

本日,ここ名瀬市において,多くの関係者と共に,奄美群島日本復帰50周年記念式典に臨むことを誠に喜ばしく思います。
奄美群島は,先の大戦の後,昭和21年に日本本土から分離され,米国の施政下に置かれました。昭和27年4月,日本と連合国との平和条約が発効しましたが,この状況に変わりはありませんでした。群島挙げての復帰運動がようやく実を結び,ついに日本に返還されたのは,それから1年半以上経った昭和28年12月25日のことでありました。復帰運動に携わった多くの人々の労苦はいかばかりのものであったかとしのばれます。日本人の多くが,この復帰を平和条約に続くうれしいことと喜びをもって迎えたことが思い起こされます。
私どもは,復帰から15年を経た昭和43年,鹿児島市で行われた明治百年記念式典に出席した機会に,奄美大島を訪れ,また,それから4年後,昭和47年鹿児島県で行われた第27回国民体育大会夏季大会出席の機会には,徳之島を訪れました。これらの島々への訪問は,懐かしい思い出として私どもの心に残りました。それとともに,島の生活の厳しい状況にも理解を深めることができました。ハブが島民に及ぼす影響の実例について聞いたことも思い起こされます。
私どもが奄美大島を訪問してから35年の月日が経ちました。今日,島は,当時に比べ,社会基盤が良く整備され,生活が向上してきていると聞いております。永年にわたり,奄美群島の発展に力を尽くした多くの人々に対し,ここに深く敬意を表します。
奄美群島はアマミノクロウサギやルリカケスを始めとして,群島にのみ生息する生物が多くいることで特徴づけられます。しかし,島の生物は個体数が限られ,環境の変化にも決して強いものではなく絶滅が心配されます。特にオオトラツグミは百羽程度しかおらず,極めて厳しい状況にあると言われております。島の人々の生活に配慮しながらこれらの貴重な生物を守っていくことは極めて大切なことと思います。
奄美群島日本復帰50周年の機会に,島民皆が,復帰運動に取り組み,これを成し遂げた先達の努力に思いをいたし,島の特性を生かして,様々な面で島を豊かにしていくよう願っています。
終わりに,奄美群島の一層の発展と島の人々の幸せを祈り,お祝いの言葉といたします。

『日本の暦』より

天皇皇后両陛下はこのような式典や外国から来た要人とお会いになる際に、失礼のないように史実や国際情勢などをお調べになっているようで、読んでみると勉強になることが多いです。
宮内庁のホームページには天皇皇后両陛下のお言葉がたくさん掲載されていますので、読んでみると面白いですよ。

2010年11月15日月曜日

今日は何の日? 横田めぐみさんが北朝鮮により拉致される

昭和52(1977)年夕刻、新潟市の中学校から帰宅する途中で拉致された。この事件は平成8年10月号『現代コリア』に朝日放送の石高健次氏が寄稿した論文で言及されていた「中学校一年生の少女拉致」が端緒となり、同年末その少女が横田めぐみさんであることが判明、翌平成9(1997)年1月23日西村真悟衆議院議員(現自由)が政府に質問書を提出、さらに2月3日には予算委員会で質問し、橋本総理も調査中であると答弁した。
政府は平成9年5月1日の参議院決算委員会の吉川芳男議員(自民)の質問への答弁を通じ北朝鮮による拉致事件として認定したことを明らかにした。アベック拉致と同様無線傍受などの情報によって特定したものと考えられる。この事件は当初工作員が海岸に来ためぐみさんに見つかり、工作活動が発覚するのを恐れて拉致したと言われていた(当初この情報をもたらした亡命工作員及び亡命工作員安明進氏が聞いた話)が、その後現場の状況の調査などから、遭遇ではなく自宅近くで待ち伏せされて(個人名を特定しない、「若い女性」などの指示による)拉致されたものと思われる。安明進氏の情報は北朝鮮の工作員養成機関「金正日政治軍事大学校」の教官から伝えられたものだが、安氏によれば、「想像だが暗くて年齢が分からず、拉致してみたら子供だったので、『見つけられたので拉致した』ということにしたのではないか」とのことである。 警察庁が拉致事件と認定

1970年代から1980年代にかけ、日本において不自然な形で行方不明となる者が出ていた。警察による捜査や、亡命北朝鮮工作員の証言などから北朝鮮による拉致の疑いが濃厚であることが明らかになった。1991年以来、日本政府は北朝鮮に対し拉致問題を提起していたが、北朝鮮側は否定し続けた。
2002年9月17日、内閣総理大臣小泉純一郎(当時)らが訪朝し、日朝首脳会談を行った際に、北朝鮮の最高指導者(国防委員長であり、朝鮮労働党の総書記)である金正日は、北朝鮮の一部の特殊機関の者たちが日本人を拉致した事実を認め、口頭で謝罪した。これにより、5人の拉致被害者が日本に一時帰国し、間もなく本人たちの意思で日本に残ることとなった。
2004年5月22日、小泉の2度目の平壌訪問により、先に帰国していた拉致被害者の夫や子供が日本への帰国を果たした。

北朝鮮は日本政府が認定した拉致被害者17人のうち残り12人について「死亡」あるいは「入境せず」として、「拉致問題は解決済み」と説明し、その後の協力を拒んでいるが、日本政府は「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」との方針により、解決を目指して交渉を続けている

『日本の暦』より

拉致の疑いがあることが暫くの間、知らされていなかったのに驚いたのを思い出します。
日本は国防も外国に頼り、領土の守りも不十分で、拉致被害者もなかなか取り戻せません。
拉致被害者かもしれない特定失踪者に関しては、政府は本腰を入れて調査していないとも聞きます。

2010年11月14日日曜日

今日は何の日? ココム加盟

独立回復後の昭和27年11月14日、ココムに加盟。
冷戰構造の崩壞に伴つて規制の大幅緩和が進み、遂に平成6年に解散となつた。
そこで、平成8年には、通常兵器などの輸出を管理するワッセナー協約(新ココム)が成立した。しかし、これには法的拘束力がない。
日本では、ココム発足に連動して「外国為替及び外国貿易管理法」及びこれに基づく政令である「輸出貿易管理令」を占領下の昭和24年に制定し、これが現在に至つているが、これはザル法であるとの指摘もある。

北朝鮮で平成9年までの9年間に「弾道ミサイルの誘導装置の開発・製造部門」などでミサイル開発に携わってきた元技師でアメリカに亡命した者が、平成15年5月15日に、「北朝鮮の大量破壞兵器開発について核・化学・生物の大量破壞兵器と弾道ミサイルの製造に必要な機械類、部品はほぼ100パーセントを外国からの輸入に頼ってきた。この輸入品の内90パーセントが日本から直接さまざまな方法で調達されていた。」など語ったことや、原子力や核兵器、ミサイル開発に欠かせない技術や知識を持つた日本の失踪者は19人であるとした「特定失踪者問題調査會」(荒木和博代表)の発表などからして、核開発問題と拉致問題とは表裏一体である。

ノドン、テポドンの弾頭、エンジン、燃料、爆薬だけが中共経由の外国製品であるが、胴体、誘導システム、電気系統、配管などは全て日本製であり、特に、長距離ミサイルの胴体は、限りなく真円に近いステンレスやアルミ合金のシームレスパイプでなければならず、内部配管についても、強い耐酸性などの耐化学薬品のシームレスパイプでなければならない。それが製造できるのは、日本では、新日鐵、住友金属、JFEの三社しかない。その中でも、真円率の高いシームレスパイプが製造できる技術はJFEが持つてゐると言われている。
このシームレスパイプをロシア経由で北朝鮮が迂回輸入することは可能であり、貿易業者や商社などがこれに介入することになると、エンドユーザーが誰なのかの追跡が全く不可能となる。さらに、積出港、輸出量などにも抜け道があり、詳細な実態把握が殆どできてゐないのが実情である。もし、北朝鮮のミサイル開発を阻止しようとするのであれば、再発防止策ないしは再調達防止策として、少なくともミサイルの真円胴体に使われる可能性のあるシームレスパイプなどについて、これまでの輸出品やこれからの輸出品の輸出先、使用先、設置先などを徹底的に追跡調査しうる権限と義務を税関検査官に付与することが必要なのであるが、現在のところこれに関する輸出貿易管理令の改正を全く行はれていない。北朝鮮に対する上辺だけの経済制裁を行ってはいるものの、それには実効性がなく、軍事転用可能物資についてはこれまで通り全く影響がない。

『日本の暦』より

2010年11月12日金曜日

今日は何の日?今上天皇即位の礼

即位の礼は、天皇が践祚(せんそ)後、皇位を継承したことを内外に示す儀典で、最高の皇室儀礼とされる。諸外国における戴冠式にあたる。即位式(そくいしき)の後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われる。即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(たいれい)または御大典(たいてん)とも称される。

今上天皇の即位の礼・大嘗祭を巡る儀式は平成2年(1990年)1月23日の期日奉告の儀から始まり、1年間に渉り関連行事が行われた。

即位の礼にあたり、式典の警備・要人警護には昭和天皇の大喪の礼での3万2000人を大きく上回る3万7000人の皇宮護衛官、警察官が動員され徹底した検問などが行われた。

【日程】
1月23日 賢所・皇霊殿・神殿に期日奉告の儀、伊勢神宮・天皇陵等に勅使発遣の儀
1月25日 伊勢神宮・神武天皇・前四代天皇陵奉幣の儀
2月8日 斎田点定の儀
8月2日 大嘗宮地鎮祭
9月27日 斎田抜穂前一日大祓(悠紀田:秋田県五城目町)
9月28日 斎田抜穂の儀(悠紀田)
10月9日 斎田抜穂前一日大祓(主基田:大分県玖珠町)
10月10日 斎田抜穂の儀(主基田)
11月12日 即位礼当日賢所大前の儀
同日 即位礼当日皇霊殿・神殿に報告の儀
同日 即位礼正殿の儀 ※国事行為
同日 祝賀御列の儀(オープンカーでのパレード) ※国事行為
同日 - 15日 饗宴の儀 ※国事行為
11月13日 園遊会・内閣総理大臣夫妻主催の晩餐
11月16日 伊勢神宮に勅使発遣の儀
11月18日 一般参賀
11月20日 大嘗祭前二日御禊・大祓
11月21日 大嘗祭前一日鎮魂の儀・同大嘗宮鎮祭
11月22日 大嘗祭当日神宮に奉幣の儀
同日 大嘗祭当日賢所大御饌供進の儀
同日 大嘗祭当日皇霊殿・神殿に奉告の儀
同日 大嘗宮の儀・悠紀殿供饌の儀
11月23日 大嘗宮の儀・主基殿供饌の儀
11月23日 - 25日 大饗の儀
11月24日 大嘗祭後一日大嘗宮鎮祭
11月27日 - 28日 即位礼・大嘗祭後神宮に親謁の儀
12月2・3・5日 即位礼・大嘗祭後神武天皇・前四代天皇陵親謁の儀
12月3日 茶会
12月6日 即位礼・大嘗祭後賢所・皇霊殿・神殿に親謁の儀
同日 即位礼・大嘗祭後賢所御神楽の儀
12月10日 天皇陛下御即位記念祝賀会

『日本の暦』より

今の天皇陛下は第125代天皇です。
陛下にも両親がおられ、そのご両親にも両親がおられる。
これは陛下に限らず、私たちにも言えることですね。
125代遡ると凄い人数になります。
今の自分がそうした命の連鎖の先頭にいると思うと、多くの命に自分が支えられているような気持ちになって、無為に過ごしていてはいけないなって思います。

2010年11月11日木曜日

『日本の暦』の写真 新しい横浜の表情

『日本の暦』に収録されている写真の紹介です。
この周辺はランドマークタワー、パシフィコ横浜、クイーンズスクエアなど比較的新しい横浜の表情が見られる場所です。
休日の昼間は人も多くて賑やかな場所ですが、夜になると人もまばらになって、程よい明るさというか暗さの横浜。
ここから汽車道を通って赤れんが倉庫まで歩くのが好きです。
私はこの辺りでいくつかのお気に入りのお店を作って、その日の気分や一緒にいる人に合わせて横浜を楽しみます。
子供の頃から横浜を見ている身としては、古い横浜の表情の方が落ち着くので、静かに過ごしたいときはまた別の場所を基点にします。
いろいろな横浜の表情。
見較べてみるのも楽しいです。

2010年11月10日水曜日

今日は何の日? 第二回憲法調査会

1945年(昭和20年)10月4日、連合国最高司令官マッカ-サ-は、東久邇内閣の近衛文麿国務大臣に、憲法改正を示唆した。近衛は、東久邇内閣退陣後、10月11日に内大臣府御用掛を命ぜられ、同じく御用掛となった佐々木惣一元京都帝国大学教授とともに、宮中の機関である内大臣府の仕事として憲法改正案の準備に着手する。10月11日に幣原喜重郎内閣総理大臣と会見したマッカ-サ-は、憲法の自由主義化について触れ人権確保の五大改革指令を出した。

松本委員長は、10月27日に行われた第1回総会で、調査委員会の使命について「憲法改正案を直ちに作成するということでは無く」と述べていたが11月10日の第2回総会では「日本を廻る内外の情勢は誠に切実である。政治的に何事も無しには済まし得ない様に思われる」、「憲法改正問題が極めて近き将来に於て具体化せらるることも当然予想しなければならぬ」と述べ、委員会は調査・研究から改正案の提示へ向けて方向転換していくことになった。

『日本の暦』より

「マッカ-サ-は、憲法の自由主義化について触れ人権確保の五大改革指令を出した」とあるように、我が国が本来自主的に制定する憲法に対して、占領軍が介入していたことを示す史実です。
このような行為は当時でも違法だったこともありますが、ポツダム宣言にも憲法の改正を求める項目はなく、まったく出鱈目なことが行われたということですね。
この出鱈目な状態を容認しているのが今の日本です。
本来であれば、主権回復した時点で破棄して、自主的な憲法の改正を行うべきだったのでしょう。
日本国憲法のマッカーサー試案なるものは、元々はフィリピン用に作られたものらしいです。国柄に合わない物ができるのも必然でしょうか。

2010年11月9日火曜日

『日本の暦』の写真 椿の花

『日本の暦』の収録されている写真の紹介です。
鎌倉の円覚寺(北鎌倉駅前)で撮影した椿の花。
我が家の花という事もあって、ちょっと地味な印象の花ですが、自然に目に入ってきます。
大島の椿祭りを見に行きたいと思っていますが、なかなか機会を作れていません。
椿は侍花だという話を聞いた事があります。
ポロっと花が落ちる様がまるで切腹して介錯されて首が落ちる様を連想させるとか。本当かな?

ちなみに『日本の暦』に収録されている写真はすべてコンパクトなデジタルカメラで撮影したものです。
プロのカメラマンなら満足できないかもしれませんが、私にはこれで十分。撮影機材はCanon Powershot G9、リコーCX-1、ニコンCoolpix S600などです。

今日は何の日? 大政奉還

1867年(慶応三年10月14日)、徳川一五代将軍慶喜が征夷大将軍の職を辞し、政権を朝廷に返上することを申し出、翌日朝廷がそれを許可した。
これにより鎌倉時代(1192年)から実に675年にわたる武家政権に終止符が打たれた。

『日本の暦』より

過去の歴史を振り返ってみると、朝廷とその時の政権が対立することが何度もありました。
赤穂浪士の話を知っていますか?
幕府が朝廷を弾圧していたことに対する義憤が動機だったという見方があります。
権力の奪い合いはこれまで何度も繰り返されてきました。
今でもそれが行われているように思います。
安定した政治を望んでいる一人としては残念な思いです。

2010年11月8日月曜日

今日は何の日? 日本共産党の全国協議会で新憲法草案

1945年(昭和20年)11月8日に日本共産党の全国協議会において新憲法の骨子とする日本人民共和国憲法草案が決議された。

1.主権は人民に在り。
2.民主議会は主権を管理する民主議会は18歳以上の選挙権被選挙権の基礎に立つ,民主議会は政府を構成する人人を選挙する。
3.政府は民主議会に責任を負う議会の決定を遂行しないか又はその遂行が不十分であるか或は曲げた場合その他不正の行為あるものに対しては即時止めさせる。
4.人民は政治的,経済的,社会的に自由であり、且つ議会及び政府を監視し批判する自由を確保する。
5.人民の生活権,労働権,教育される一権利を、具体的設備を以て保証する。
6.階級的並びに民族的差別の根本的廃止。
から成る「新憲法の骨子」(1945年11月8日に日本共産党の全国協議会において決議されたものは、1945年11月11日に日本共産党が発表したものより1項目多く全7項目となっていた)基軸に、1946年(昭和21年)6月28日に日本共産党が決定し、翌、6月29日に日本共産党が発表した大日本帝国憲法の改正草案の特徴は、天皇制を廃止して共和制・民主集中制を採用している事と自由権・生活権等が社会主義の原則に基づいて保障されている事であり、スターリン憲法などに代表される典型的な社会主義憲法の構成を採る。ただし、党の指導性は明示されておらず、土地を始めとする生産手段の国有化は明文では規定されていなかった。

『日本の暦』より

共産党は中国のような人民憲法を望んでいるんですね。
ただもう少し注意深く考察すると面白い事に(恐ろしい事に?)気が付きます。
人民を国民に置き換えて読んでみてください。
実はそんなに日本国憲法の方向性と変わらないんです。日本国憲法は共産党の革命の道具だという解釈ができるんです。
実際に戦後武力による革命を諦めた共産党は、野坂参三らによる2段階革命論を唱えました。その第1段階目が国民主権による民主主義革命で、その次に国民主権を利用した社会主義革命であるとしたものです。第1段階は日本国憲法によって達成され、地道に次の段階を成し遂げようとしているという事です。
思い返してみてください。
小沢一郎氏が天皇陛下の政治利用をして批判されました。あの時小沢氏はどんな発言をしたか。
国民によって選ばれた国会議員が天皇陛下をどう扱うかを決めたっていいじゃないか、という趣旨の事を言いましたよね。この発言の発端は日本国憲法第一条にある「天皇の地位は主権者たる国民の総意に基づく」という部分です。
尖閣諸島の一件で憲法改正(九条の改正)を叫ぶ人が目立ってきました。危機感を感じているのがわかります。ただ、それとは別にもっと大きな危機があまり認識されないまま進行しています。領土だけじゃなくて、日本の国柄の破壊という危機です。

2010年11月7日日曜日

今日は何の日?沖繩及び小笠原諸島に関する決議案

第017回国会 本会議 第9号
昭和二十八年十一月七日(土曜日)
午後一時本会議
沖繩及び小笠原諸島に関する決議案(佐藤榮作君外六十七名提出)より抜粋

●荒舩清十郎君 議案上程の緊急動議を提出いたします。すなわち、佐藤榮作君外六十七名提出、沖繩及び小笠原諸島に関する決議案は、提出者の要求通り委員会の審査を省略してこの際これを上程し、その審議を進められんことを望みます。
●議長(堤康次郎君) 荒船君の動議に御異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
●議長(堤康次郎君) 御異議なしと認めます。
沖縄及び小笠原諸島に関する決議案を議題といたします。提出者の趣旨弁明を許します。上塚司君。
〔上塚司君登壇〕
●上塚司君 ただいま議題となりました沖繩及び小笠原諸島に関する決議案につき、各党派を代表いたしまして、提案の趣旨を説明いたします。まず決議案の全文を朗読いたします。
沖繩及び小笠原諸島に関する決議案
奄美大島、沖繩、小笠原各諸島のわが国返還については、国会が屡次決議を重ねてきたところであり、今回、奄美大島の復帰が実現するについては米国の好意に深く感謝するところであるが、同じく旧日本領土内にあり、講和条約においても同一条件下にある沖縄、小笠原両諸島が依然としてわが国主権外におかれていることは、極めて遺憾である。
本院は、政府が国民の総意を体して両諸島のわが国復帰促進につき至急善処せんことを要望する。
右決議する。
〔拍手〕
サンフランシスコ平和条約第三条は、沖縄、奄美大島及び小笠原諸島を国際連合のもとにおける米国の信託統治区域に予定し、かつ信託統治が実現されるまで米国が施政権を有することを定めたのであります。しかるに、これら諸島に対する米国の信託統治を実現するためには国際連合の安全保障理事会の承認を必要としており、これが承認を得ることは現下の国際情勢においてはすこぶる困難なる事情にありまして、平和条約発効後すでに一年有半に至りまするが、いまだ信託統治は実現せず、いまなお米国の施政権が行われておる次第であります。
領土に関する問題は日本国民の最も関心を有することは、いまさら申すまでもないところであります。ことに、沖縄及び小笠原諸島は、奄美大島とともに、同じ血をわかつたわれらの兄弟の住む所であり、その位置も日本本土に近接し、長年にわたり日本本土の行政区域として、地理的に、経済的に、はたまた文化的に密接不可分の関係にあり、国民は一日もすみやかに日本内地の施政に統一されんことを熱望し、島民はこぞつて国会に対する請願、陳情その他あらゆる手段を尽してこれら諸島の日本への完全復帰を懇願いたしております。本院は、院議をもつて、しばしば政府に対し適切なる措置を講ずべきことを要望し、第十六回国会においても、領土に関する決議案を全会一致をもつて可決した次第であります。
沖繩諸島につきましては、昨年四月立法、司法及び行政の各機関を備える琉球政府が設立せられ、民意の暢達に資し、かつ教育、関税その他の点においても日本内地との一体化に留意していることはまことに喜ばしいことでありまするが、いまだ日本への完全復帰に至らないことは実に遺憾であります。
小笠原諸島につきましては、全住民七千七百余名は、昭和十九年旧日本軍の強制分散疎開命令を受けまして、内地に移住を余儀なくされ、今日に至るまで、これら住民は島に帰ることを許されず、なつかしき故郷を失い、またその生業としておつた農業及び漁業を営む道を奪われ、最も悲惨なる状態に追い込められておる次第でありまして、その心情を思うとき、実に気の毒にたえないのであります。右につきましては、第十六回国会において、「小笠原諸島より引揚げさせられた元住民の帰郷に関する決議案」が本院において全会一致可決されております。
なお、奄美大島は従来琉球政府の施政区域に属しておつたのでありまするが、去る八月、ダレス米国国務長官は、日本訪問に際しまして声明を発し、米国政府は平和条約第三条に基く権利を放棄し、日本の管轄権を復活し、奄美大島を日本に統合し、その住民を日本本土に結びつける旨の意向を表明いたしました。この米国政府の措置については、二十余万の奄美大島住民はもちろん、日本国民のひとしく喜びとして、その好意ある態度に対し衷心感謝いたしておる次第であります。
しかるに、沖繩及び小笠原諸島は、前に述べました通り、平和条約第三条に基き、奄美大島とまつたく同一条件のもとにあり、その日本への復帰は、島民の心からなる悲願であるとともに、わが国民のこぞつて熱望しておるところであります。よつて、衆議院の各派は一致して、政府に対し、この希望達成のために、すみやかに適切なる措置を講ぜられんことを要望いたすものであります。
何とぞ各位の御賛同を得まして、全会一致可決せられんことをお願いいたします。(拍手)
●議長(堤康次郎君) 採決いたします。本案に賛成の諸君の起立を求めます。
〔総員起立〕
●議長(堤康次郎君) 起立総員。よつて本案は全会一致可決いたしました。(拍手)

『日本の暦』より

2010年11月6日土曜日

今日は何の日? 文部省が剣道などの武道を禁止

1945年(昭和20年)11月・12月、文部省発体80号・100号により、学校における武道(剣道・柔道・薙刀・弓道)の授業は全面的に禁止され、課外の部活動も禁止された。文部省は学校教育における戦時色の払拭に努め、武道の免許状も無効扱いとされ、「武道」という言葉自体に軍事的な意味合いを含むとして使用は控えられた。その後、1951年(昭和26年)7月25日、文部事務次官通知により中学校以上の体育教材として弓道の実施が認可され、再び学校教育に採り入れることが許可され、課外の部活動も解禁される。

『日本の暦』より

占領期にはこんなひどい事もされたんですね。
言論統制、報道規制、教育内容への干渉など、ありとあらゆる自由が奪われた占領期。
その残骸がまだたくさん残っていることをあなたは知っていますか?

2010年11月5日金曜日

今日は何の日? 「戦争責任等に関する件」閣議決定

天皇の戦争責任の否定を確認した。

戦争責任等に関する件 幣原内閣閣議決定 (1945.11.5)


戦争責任等に関する件
〔幣原内閣〕
第一、一般通則
左の諸点に準拠し之を堅持すること
(1) 大東亜戦争は帝国が四囲の情勢に鑑み已むを得ざるに出でたるものと信じ居ること。
(2) 天皇陛下に於かせられては飽く迄対米交渉を平和裡に妥結せしめられんことを御軫念あらせられたること。
(3) 天皇陛下に於かせられては開戦の決定、作戦計画の遂行等に関しては憲法運用上確立せられ居る慣例に従はせられ、大本営、政府の決定したる事項を却下遊ばされざりしこと。
(4) 日米交渉継続中に攻撃を加ふることを避けんが為日米交渉打切りの通告の通達方努力せること。
(注)当時帝国に加へられたる軍事的経済的圧迫等の実情に照し我方は自衛権を発動したるものにして開戦に関する海牙条約の規定は阻却せられ得るものなりとの見解なりしこと。
(5) 宜戦の大詔は主として国民を対象とする対内的のものなること。
(6) 英国其他に関しては当時米国の英国其他の諸国との関係に鑑み之を分離し取扱うことを得ざりしこと。

第二、細則
一 陛下に関する説明
(1) 飽く迄日米交渉の円満妥結方を政府に御命令あらせられ最後の段階に至る迄之を御軫念あらせられしこと。
(2) 開戦の決定、作戦計画の遂行等に付ては統帥部、政府の決定したるものを憲法上の慣例に従はせられ之を却下遊ばされざりしものなること。
(3) 真珠湾攻撃以前に於て海軍幕僚長より初期作戦の大網に付きては聴き及ばれたるも実施細目に関しては報告を受け居られざりしこと。
(4) 右作戦計画を実施に移すに際しては武力行使に入るに先立ち米国政府に対し外交上の措置を講ずるものと了解遊ばされ居りしこと(ただし右通告が開戦に関する海牙条約の規定する宣戦布告の通達たるを要するや将又日米交渉打切りの対米通告にて充分なりしやに関しては厳格に法律的にほ御承知相成り居らざりしものなること)。
(5) 宜戦の詔書は昭和十六年(一九四一年)十二月八日午前十一時三十分御署名相成られたこと(ただし右詔書は国民に開戦が已むを得ざるに出でたるものなることを御垂示相成られんが為のものにして、主として国内的意義を有するものとなること)。
二 内閣総理大臣に関する件
(1) 大東亜戦争は当時帝国に加へられたる米英等の軍事的経済的圧迫等の実情に照し自衛上已むを得ざるに出でたるものなりと信じ
(2) 開戦の決定に関しては大本営政府連絡会議、閣議及御前会議を経て議定せられたること。
(3) 初期作戦の大綱は両幕僚長より奏上せられ居り内閣総理大臣は之を知悉し居りたること(他の連絡会議構成員には軍事機密なるを以て全然之を示し居らざりしものなり)。
(4) 政戦両略の統合は連絡会議によりて行はれ右に関する内奏は主として内閣総理大臣之に当りたること。
三 陸海軍両幕僚長に関する件
(1) 開戦の決定には大本営政府連絡会議の構成員として関与せること。
(2) 初期作戦の大網のみを陛下に奏上したること(右大綱の程度は陸海軍により異る、海軍の大綱は「ハワイ」も含まれ居る旨を奏上したる程度なること)。
四 陸海軍両大臣に関する件
(1) 開戦の決定には大本営政府連絡会議の構成員として関与せること。
(2) 初期の作戦計画の構想に関しては夫々両幕僚長より説明を聴き及びあること(攻撃地として「ハワイ」も含まれ居ることは承知し居たるものなり)。
五 外務大臣に関する件
(1) 日米交渉の円満妥結方陛下の御思召を体し極力之が達成に努めたるも遂に不成功に終りたること。
(2) 開戦の決定に関しては大本営政府連絡会議の構成員として関与したること。
(3) 作戦計画に関しては全然通報を受け居らざりしも開戦の月日に関しては推察はし居りしこと。
(4) 武力発動前日米交渉打切りの対米通告の事前通達方手配したること。
(注)右通告電報が在米日本大使館に於て解読及整備までに意外の長時間を要し米国政府への通達遅れたること。
(5) 対英関係等に付ては当時の米英関係等に鑑み最後の対米通告及武力発動が即時米国政府より英国政府等に伝達せらるべき状態に在りたることと予期し居りたること。

『日本の暦』

ちょっと古い文章は現代の日本人には読みにくいですね。
本当は正統な漢字や仮名遣いは、この古い文章の方で、現代漢字仮名遣いは占領期に導入されたものです。
時には意味が違って見える場合もあります。
人間は言葉を使って考える生き物ですから、この言葉の変化は考え方の変化をもたらしたかもしれません。
たまには古い日本語を読んでみると何か発見があるかもしれませんね。

2010年11月4日木曜日

今日は何の日? 沖ノ鳥島の護岸工事完了

東京から1,740km、硫黄島から720km、太平洋の絶海に孤立して形成された南北約1.7km、東西約4.5km、周囲約11kmほどのコメ粒形をしたサンゴ礁の島。

干潮時には環礁の大部分が海面上に姿を現すが、満潮時には礁池内の東小島(ひがしこじま)と北小島(きたこじま)の2つの島が海面上に姿を現すのみである。北緯20度25分31秒東経136度4分11秒[1]フィリピン海プレートのほぼ中央に位置する。日本では小笠原諸島の一部として、東京都小笠原村に属し、住所は郵便番号「100-2100」、東京都小笠原村沖ノ鳥島1番地(北小島)及び、2番地(東小島)となっている。ただし、東京都だけでは保守費用を負担しきれないことから、1999年6月以降は、国(所管は国土交通省)が中心に管理をしている。電話の市外局番は小笠原村の04998だが、無人島であるこの島に加入者は存在しない。

沖ノ鳥島が風化などで満潮時に海の下に隠れてしまうと、日本の国土面積(約38万km²)を上回る排他的経済水域が失われてしまうということで、1988年から段階的に2つの島の周りに消波ブロックとコンクリート護岸工事を行った。日本政府は沖ノ鳥島を中心とする半径200海里(370.4km)、約40万km²の排他的経済水域(EEZ)を設定することを国際連合に届け出て以降、国際社会から「島」と認められているとしている。

『日本の暦』より

日本は海洋国家と言ってもいいでしょう。
海洋面積で見ると世界有数の大きな国です。
海岸線の長さも世界有数。
学校では小さな島国で資源もないと教わりますが、それは嘘ですね。
竹島や北方領土、尖閣諸島に関してもいろいろ問題にされますが、どれも日本の領土です。そしてその周辺海域も日本の領海です。
竹島周辺にはメタンハイドレードが、尖閣諸島と北方領土には海底油田やガス田があります。
私たちはこの事実と領海という広大な面積を認識する必要があるでしょう。
そういう認識ができれば、これらの領土の問題は他人事ではありませんよね?

また、古来から日本人はこの海の恵みを享受してきました。
今では食生活が洋食化して魚介類が食卓に並ぶ機会が減りました。
資源について考えるとき、そういう身の回りのことを考えてみるのも大事かもしれません。

2010年11月3日水曜日

今日は何の日? 明治節

元四大節の一つ。「明治天皇の遺徳を仰ぐ」ために昭和2年に制定。明治時代は天長節。1948年には、明治節は廃止された。現在の「文化の日」であるが、これは1946年の日本国憲法公布にちなんで制定され、1948年に公布されたもので、明治節とは直接の関係はないとされる。
1912(明治45)年7月30日の明治天皇の崩御に伴い廃止されたが、昭和に入ってから「明治節」として復活した。

『日本の暦』より

2010年11月2日火曜日

今日は何の日? 日本社会党結成

1945年(昭和20)、戦前の無産政党各派が合同して結成した社会主義政党。
47年の総選挙で第一党となり、片山内閣を組織したが、翌年総辞職。以後、左右の対立が激化し、51年分裂。
55年左派の主導の下に再統一したが、60年には右派が分裂して民主社会党を結成した。
94年(平成6)6月日本社会党委員長村山富市を首相とする村山内閣が成立。

『日本の暦』より

今はもう社会党は存在しませんが、民主党に合流するかたちで議員も事務方も依然として活動を続けています。

2010年11月1日月曜日

『日本の暦」の写真 北野天満宮の紅葉

iPad版『日本の暦』に収録されいる写真の紹介です。

京都の金閣寺の近くにある北野天満宮は紅葉の名所の一つ。
この写真は数年前に車にロードバイクを積んで友人と一緒に京都の街を散策しに行ったときに撮影したもの。

ものすごく寒くて震えながらライトアップされる時間まで待ったのを思い出します。
竹林と紅葉が織りなす光景はなんとも言えない幻想的なものでした。撮影を始めたら寒さを忘れてしまい、いろいろなアングルを試しながら夢中で写真撮影をしていました。

これから紅葉を楽しみに出かける方は防寒対策をしっかりして風をひかないように注意してください。

今日は何の日? GHQは近衛の仕事について関知しないと声明を出す

1945年10月4日、マッカーサーは東久邇内閣の近衛国務相(日中戦争時の首相)に、憲法改正作業の指導の陣頭に立つことを要請する。(誤解や、通訳の間違いとする説もある)その後、米国で近衛は戦犯なのになぜ憲法を起草するのかという批判が上がり、11月1日、GHQは近衛の仕事について関知しないと声明を出すことになる。

【袖井林二郎「マッカーサーの二千日」より】
具体的な改正案の起草にとりかかった近衛は、二十一日(1945年10月21日)、AP通信の東京特派員ラッセル・ブラインズを通じ、 自分がマッカーサー元帥のすすめによって憲法改正に着手するにいたったと、世界に告げたのである。
「元帥は会見劈頭日本憲法を自由主義化する必要のあることをはつきり言明し、 自分にその運動の先導をするやう示唆した。 自分は憲法改正は天皇陛下の御発意によつてのみ行ひ得る旨を答へたが、 元帥の意志を陛下に御伝へすることを約束した。 そしてこのことを御報告申上げたら、陛下は自分に憲法改正に着手せよと命ぜられ、 自分は内大臣御用掛を拝命した。 改正草案は十一月中に完成したいと思つてゐる。 米軍当局には随時詳細に亘つて報告されよう。 マ元帥からは特殊の問題はすべて最高司令官自身へ持つてくるやう要求されてゐる・・・・・・」
この記事がGHQの事前検閲を経て掲載されたのだということを考えると、 この段階ではマッカーサーは自分が近衛に憲法改正のイニシャティブをとらせたという事実を完全に認めていたことになる。 当時中国でもまたアメリカ国内でも、近衛は戦争犯罪人として逮捕されるべきだという声は高かった。 それなのにマッカーサーはなぜ近衛を重用したのだろうか。 マッカーサーの貴族趣味というだけでは解答にならない。 おそらく天皇制をその権力を弱体化しつつもかたちとして守ることをすでに決意していたマッカーサーは、 その目的のために、天皇家の最良の理解者であり、最大の忠臣である近衛を利用しようとしたのではないだろうか。 マッカーサーが近衛を天皇と同じように戦犯リストから除外することができると思っていたかどうかは明らかでない。
APの記事は近衛にとって命とりになった。 十月二十六日の『ニューヨーク・タイムズ』紙は近衛が日本の憲法を起草するにふさわしいというなら、 [ナチスの]ゲーリングもアメリカ合衆国の首相になれる、というきびしい社説をかかげた。


『日本の暦』より