1946年1月4日、GHQが軍人、政治家、財閥関係者、マスコミ関係者などの公職追放を指示。
1946年(昭和21年)に勅令形式で公布・施行された「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」(公職追放令、昭和21年勅令第109号)などにより、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われた。この勅令は翌年の「公職に関する就職禁止、退官、退職等に関する勅令」(昭和22年勅令第1号)で改正され、公職の範囲が広げられて戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象になった。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。
この公職追放によって各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、教育機関(日教組)やマスコミ、言論等の各界で、いわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になるという、公職追放を推進したGHQ、アメリカにとっては大きな誤算が発生してしまう。逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは、旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰した。また、政治家は衆議院議員の8割が追放されたが、世襲候補など身内を身代わりで擁立し、議席を守ったケースも多い。
その後、二・一ゼネスト計画などの労働運動の激化、中国の国共内戦における共産党の勝利、朝鮮戦争などの社会情勢の変化から、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策が転換され、主な対象者は次第に共産主義者やそのシンパとなっていった(逆コース、レッドパージ)。
1951年の第一次追放解除で、および「公職追放令廃止法」により復帰した主な人物。
赤尾敏 - 大日本愛国党総裁、赤城宗徳、足立正 - 王子製紙社長、池田成彬 - 三井合名理事、竹越与三郎 - 枢密顧問官、石井光次郎 - 衆議院議員、石田礼助 - 三井物産代表取締役、石橋湛山 - 政治家、石原莞爾 - 軍人、市川房枝 - 婦人運動家、二代伊藤忠兵衛 - 伊藤忠商事並びに丸紅の基礎を築いた実業家、植村甲午郎 - 農商務官僚、大達茂雄 - 小磯内閣で内務大臣、緒方竹虎 - 朝日新聞主筆、小倉正恒 - 住友の6代目総理事、小野清一郎 - 東京大学法学部教授(刑法)、加藤謙一 - 講談社「少年倶楽部」編集長、唐沢俊樹 - 内務省警保局長、小平浪平 - 日立製作所社長、小林一三 - 阪急電鉄創業者、五島慶太 - 東京急行電鉄社長、渋沢敬三 - 日本銀行総裁、下中弥三郎 - 平凡社社長、正力松太郎 - 読売新聞社長、膳桂之助 - 経済安定本部総務長官、田中正明 - 大日本興亜同盟職員、円谷英二 - 映画監督・特撮監督、堤康次郎 - 西武グループの創設者で総帥・衆議院議員、徳富蘇峰 - ジャーナリスト、灘尾弘吉 - 終戦時の内務次官、鳩山一郎 - 政治家、東久邇稔彦 - 陸軍大将、平泉澄 - 歴史学者、前田久吉 - 大阪新聞社長、町田忠治 - 立憲民政党総裁、松下幸之助 - 松下電器産業社長、松野鶴平 - 立憲政友会幹事長、松本治一郎 - 政治家、松前重義 - 東海大学創設者、三木武吉 - 報知新聞社社長、安岡正篤 - 思想家。大東亜省顧問。
『日本の暦』より
米国占領軍による苛烈な思想と言論の弾圧。その傷は現在でもいたるところに残っています。
日本全土に原爆を落とすことをちらつかせながら、東京裁判という名の見せしめショーを行い、自由な言論活動を妨げ、食糧難に苦しむ日本人にアメを与えて、占領軍に寝返って従順な日本人を国の中枢に起き傀儡としながら、真実を隠し通そうとしたことが、歴史を見るとよくわかります。
国柄や日本人の精神を歪めて、二度と歯向かうことのない日本にするのが目的でした。それは日本国憲法の条文として今でも残っています。
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