明治41年(1908年)11月22日
アメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の試合における大隈重信の始球式は記録に残っている最古の始球式とされている。
大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、早稲田大学の創設者、総長、政治家である大先生の投球をボール球にしてはいけないと考えた早稲田大学の1番打者がわざと空振りをしてストライクにした。
これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、始球式の投球をボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった。
『日本の暦』より
2010年11月22日月曜日
2010年11月21日日曜日
今日は何の日? 天皇皇后両陛下、最後の靖国神社へのご親拝
1975年(昭和50年)11月21日・大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)、これが昭和天皇、最後の靖国神社ご親拝となる。
1975年(昭和50年)、当時の首相三木武夫は8月15日に靖国神社に参拝したが、公用車を使わず、肩書きを記帳せず、玉串料を公費から支払わず、閣僚を同行しないことの4条件を以て、「私的参拝」だと述べた。
このことで首相の参拝は公人か私人かという議論が国会で取り上げられるようになり政治問題化した。
一方で1945年(昭和20)年8月9日深夜の第一回御前会議前会議での昭和天皇の公の席でのお言葉は(『終戦史録』より)
「我が国力の現状、列国の情勢等を観るとき、これ以上戦争を続けることは我が民族を滅亡せしめるのみならず世界人類を一層不幸に陥れるものである。自分としてはこれ以上戦争を続けて無辜の国民を苦しめるに忍びない。速やかに戦争を終結せしめたい。
開戦以来、軍のいう所と実際との間にはしばしば食い違いがあった。現に軍は本土決戦などというけれども九十九里浜の防備さえできていないではないか」
「今日まで戦場にあって陣没し、あるいは殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思う時は、悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災を蒙り、家業を失った者の生活に至りては、私の深く心痛するところである。もちろん忠勇なる軍隊の武装解除や、戦争責任者の処罰などが行われるだろうが、それらの者はみな忠誠を尽くした人々で、実に忍びがたいものがある。しかし今日は忍びがたきを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の時のお心持ちを偲び奉り、自分は涙をのんで、連合国宣言を外相の示す立ち場に立って受諾する提案に賛成する。」という内容の聖断だった。
また同年8月14日の第2回御前会議におかれては(『終戦史録』より)
「陸海空の軍人にとって、武装解除や 保障占領というようなことはまことに堪えがたいことで、その気持ちは自分にもよくわかる。また自分の信頼する臣を戦争犯罪人として出すことは情においてまことに忍びがたい」とおおせられて、落涙を白き御手袋を以て払わせられ、更にお言葉をついで、「しかし日本がまったく無くなるということなく、少しでも種子が残りさえすれば、また復興と言う光明も考えられる。この上戦争を続けては我国は全く焦土となり、国民にこれ以上苦しみを嘗めさせることは自分として実に忍びない。自分は如何になろうとも国民を救いたい。この際は堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、一致協力、将来の回復に立ち直りたい。国民のためになすべきことがあれば、なんでも厭わない、国民に呼びかけるのがよければ、マイクの前にも立とう。皆その気持ちになってやって貰いたい。この際詔書を出す必要もあろうから、政府は早速その起案をするように。」と、諄々として諭された。居並ぶ諸員皆深く頭を垂れ、感泣嗚咽した。
昭和天皇が参拝を行わなくなった理由については、左翼過激派の活動の激化、宮中祭祀が憲法違反であるとする一部野党議員の攻撃など様々に推測されてきたが、近年、富田朝彦元宮内庁長官の残したメモ『富田メモ』(日本経済新聞、2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978年(昭和53年)に極東国際軍事裁判でのA級戦犯14名が合祀されたことに対して不快感をもっていたからとの説が浮上している。
しかし天皇陛下のお言葉は、立憲君主としての公的な立場でのご発言と個人としての私的なご発言とを区別されるべきであり、この「富田メモ」なるものは、その検証が十分になされているとは言い難い。天皇陛下のお言葉を以て、反靖国論や戦犯分祀論を展開することは天皇の政治利用と言えよう。
一人の戦争犯罪者も出したくないという思いで、マッカーサーを訪問されて、戦争の全責任は自分にあると仰った昭和天皇が、靖国にA級戦犯が合祀されたからと言って、それを不快に思われて参拝されなくなったという説は、以上の御前会議のお言葉から推測するに、的を得ていないように思われる。
首相の公式参拝が政治問題化してしまったことが、昭和天皇が参拝をお控えになった理由だとすれば、国家のために命を落とされた方々を国家が正式に慰霊することができるようにならない限り、今後も天皇は靖国を参拝することはできないままである。
『日本の暦』より
1975年(昭和50年)、当時の首相三木武夫は8月15日に靖国神社に参拝したが、公用車を使わず、肩書きを記帳せず、玉串料を公費から支払わず、閣僚を同行しないことの4条件を以て、「私的参拝」だと述べた。
このことで首相の参拝は公人か私人かという議論が国会で取り上げられるようになり政治問題化した。
一方で1945年(昭和20)年8月9日深夜の第一回御前会議前会議での昭和天皇の公の席でのお言葉は(『終戦史録』より)
「我が国力の現状、列国の情勢等を観るとき、これ以上戦争を続けることは我が民族を滅亡せしめるのみならず世界人類を一層不幸に陥れるものである。自分としてはこれ以上戦争を続けて無辜の国民を苦しめるに忍びない。速やかに戦争を終結せしめたい。
開戦以来、軍のいう所と実際との間にはしばしば食い違いがあった。現に軍は本土決戦などというけれども九十九里浜の防備さえできていないではないか」
「今日まで戦場にあって陣没し、あるいは殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思う時は、悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災を蒙り、家業を失った者の生活に至りては、私の深く心痛するところである。もちろん忠勇なる軍隊の武装解除や、戦争責任者の処罰などが行われるだろうが、それらの者はみな忠誠を尽くした人々で、実に忍びがたいものがある。しかし今日は忍びがたきを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の時のお心持ちを偲び奉り、自分は涙をのんで、連合国宣言を外相の示す立ち場に立って受諾する提案に賛成する。」という内容の聖断だった。
また同年8月14日の第2回御前会議におかれては(『終戦史録』より)
「陸海空の軍人にとって、武装解除や 保障占領というようなことはまことに堪えがたいことで、その気持ちは自分にもよくわかる。また自分の信頼する臣を戦争犯罪人として出すことは情においてまことに忍びがたい」とおおせられて、落涙を白き御手袋を以て払わせられ、更にお言葉をついで、「しかし日本がまったく無くなるということなく、少しでも種子が残りさえすれば、また復興と言う光明も考えられる。この上戦争を続けては我国は全く焦土となり、国民にこれ以上苦しみを嘗めさせることは自分として実に忍びない。自分は如何になろうとも国民を救いたい。この際は堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、一致協力、将来の回復に立ち直りたい。国民のためになすべきことがあれば、なんでも厭わない、国民に呼びかけるのがよければ、マイクの前にも立とう。皆その気持ちになってやって貰いたい。この際詔書を出す必要もあろうから、政府は早速その起案をするように。」と、諄々として諭された。居並ぶ諸員皆深く頭を垂れ、感泣嗚咽した。
昭和天皇が参拝を行わなくなった理由については、左翼過激派の活動の激化、宮中祭祀が憲法違反であるとする一部野党議員の攻撃など様々に推測されてきたが、近年、富田朝彦元宮内庁長官の残したメモ『富田メモ』(日本経済新聞、2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978年(昭和53年)に極東国際軍事裁判でのA級戦犯14名が合祀されたことに対して不快感をもっていたからとの説が浮上している。
しかし天皇陛下のお言葉は、立憲君主としての公的な立場でのご発言と個人としての私的なご発言とを区別されるべきであり、この「富田メモ」なるものは、その検証が十分になされているとは言い難い。天皇陛下のお言葉を以て、反靖国論や戦犯分祀論を展開することは天皇の政治利用と言えよう。
一人の戦争犯罪者も出したくないという思いで、マッカーサーを訪問されて、戦争の全責任は自分にあると仰った昭和天皇が、靖国にA級戦犯が合祀されたからと言って、それを不快に思われて参拝されなくなったという説は、以上の御前会議のお言葉から推測するに、的を得ていないように思われる。
首相の公式参拝が政治問題化してしまったことが、昭和天皇が参拝をお控えになった理由だとすれば、国家のために命を落とされた方々を国家が正式に慰霊することができるようにならない限り、今後も天皇は靖国を参拝することはできないままである。
『日本の暦』より
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日本の暦
2010年11月20日土曜日
和食について
外国の友人たちと食の話で盛り上がることがあります。命を維持するための食ですから世界の誰もが関心のあることなので当然でしょうか。
安全保障の話になると、軍事を真っ先に持ってくる人もいますが、最も大事なのは食糧ですね。ラバウルが攻撃されなかったのも、強固な地下要塞を作って完全な食糧自給体制を築いていたからですし、多くの日本兵が亡くなった大きな原因は食糧補給路が断たれた結果の餓死でした。
現在、PTTについての議論が盛り上がっていますが、自由貿易を推進しようという流れが押し寄せています。政治家や評論家の中には、この自由貿易が良いことであると思っている人もかなりいます。しかし、食糧に関しては、それが世界のどこでも均等に生産できないこと、お金がなければ買えないこと、戦争や紛争、天災、気候変動によって生産量が不安定なこと、穀物メジャーのような生産から流通までを独占する存在など、食糧の確保を不安定にする要因はたくさんあります。
日本は食糧自給率が低い国です。お金があっても、シーレーンなども補給路が確保できても、前述の不安定化要因がなくなるわけではありません。
占領体制の中で日本の自給率を下げる施策があったことはすでに知られていることですが、現在の自由貿易体制も自給率をを下げる力として働く可能性があります。そんな中で日本人は食糧を確保する努力を続けなくてはなりません。
『ラジオ版学問のすすめ』という番組は知っていますか?
その中に和食、農業、食糧自給について話している番組があったのでご紹介します。
この番組は東京農業大学名誉教授の小泉武夫氏が面白い話をしています。
http://pod.jfn.co.jp/susume/dl/susume_vol236.mp3
安全保障の話になると、軍事を真っ先に持ってくる人もいますが、最も大事なのは食糧ですね。ラバウルが攻撃されなかったのも、強固な地下要塞を作って完全な食糧自給体制を築いていたからですし、多くの日本兵が亡くなった大きな原因は食糧補給路が断たれた結果の餓死でした。
現在、PTTについての議論が盛り上がっていますが、自由貿易を推進しようという流れが押し寄せています。政治家や評論家の中には、この自由貿易が良いことであると思っている人もかなりいます。しかし、食糧に関しては、それが世界のどこでも均等に生産できないこと、お金がなければ買えないこと、戦争や紛争、天災、気候変動によって生産量が不安定なこと、穀物メジャーのような生産から流通までを独占する存在など、食糧の確保を不安定にする要因はたくさんあります。
日本は食糧自給率が低い国です。お金があっても、シーレーンなども補給路が確保できても、前述の不安定化要因がなくなるわけではありません。
占領体制の中で日本の自給率を下げる施策があったことはすでに知られていることですが、現在の自由貿易体制も自給率をを下げる力として働く可能性があります。そんな中で日本人は食糧を確保する努力を続けなくてはなりません。
『ラジオ版学問のすすめ』という番組は知っていますか?
その中に和食、農業、食糧自給について話している番組があったのでご紹介します。
この番組は東京農業大学名誉教授の小泉武夫氏が面白い話をしています。
http://pod.jfn.co.jp/susume/dl/susume_vol236.mp3
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食
2010年11月19日金曜日
2010年11月18日木曜日
今日は何の日? GHQ、航空機の研究や開発を禁止する
1945年(昭和20年8月15日)、太平洋戦争はわが国の無条件降伏によって終結した。終戦によってわが国は連合国軍の占領下におかれ、旧陸海軍、旧財閥の徹底的な解体が開始された。連合軍は次々と航空政策を打ち出した。まず、同年8月24日、日本国籍のいっさいの航空機は飛行を禁止された。ついで同年9月2日、連合軍総司令部(GHQ)の覚書によって、日本政府は、飛行場およびすべての必要な航空保安施設を現状のまま連合軍に引き渡すように命ぜられた。さらに、同年9月22日、「降伏後の日本に関する米軍の最初の政策」が発表され、「武装解除並ニ軍国主義ノ抹殺」という一項によって、3ヶ月の間に旧陸海軍所属の軍用機、民間機は徹底的に破壊され、つづいて24日には、民間航空機および部品などの生産禁止が指令された。
以上の措置の総まとめとして同年11月18日、GHQは12月31日限りで航空機の生産・研究・実験をはじめとした一切の活動を禁止する覚書を発表し、日本
の飛行機は模型飛行機すら飛ばすことができなくなった。また、運輸省航空局も同年の12月31日をもって廃止され、中央航空研究所、東京帝大航空研究所なども翌年1月までにことごとく廃止された。終戦間近には、米軍の空襲によって多くの航空機工場は決定的な大打撃を受けており、すでに瀕死状態あった航空機工業だったが、これすら占領軍によって完全に葬り去られたのであった。そのうえ、財閥解体によって、航空機を生産していた会社のほとんどが複数の会社に分割され、技術者も分散していった。さらに決定的だったのは、それまで航空機工業を支えていた陸海軍が消滅してしまったことである。
対日講和条約の発効を間近にひかえた1952年(昭和27)年4月9日、GHQは「兵器、航空機の生産禁止令」を解除し、許可制に改める旨、通告した。これによって日本の航空機工業は自主的に航空機の生産と研究を
再開することができるようになった。
復興をめざす政府は、航空再開と同時に、通産省通商機械局に航空機生産行政に関する特別調査会を設け、昭和27年8月には重工業局に航空機課が新設された。これらの一連の動きのなかで、同年7月、「航空機製造法」が制定・公布された。そして8月には、同施行令、ついで昭和28年1月には同施行規則が制定・施行され、ここに航空機工業再開への道が開かれた。
『日本の暦』より
現在でも制空権が自由にならない日本。
漁業権が邪魔をして海上自衛隊も有事の際に自由に軍港を設けることができないので、制海権も自由になりません。この漁業権も占領政策の一環として導入されたものです。
また自衛隊も日米安全保障条約に縛られており、日本が独自の判断で自衛隊を動かすこともできません。
依然として占領体制の中に置かれているようです。
以上の措置の総まとめとして同年11月18日、GHQは12月31日限りで航空機の生産・研究・実験をはじめとした一切の活動を禁止する覚書を発表し、日本
の飛行機は模型飛行機すら飛ばすことができなくなった。また、運輸省航空局も同年の12月31日をもって廃止され、中央航空研究所、東京帝大航空研究所なども翌年1月までにことごとく廃止された。終戦間近には、米軍の空襲によって多くの航空機工場は決定的な大打撃を受けており、すでに瀕死状態あった航空機工業だったが、これすら占領軍によって完全に葬り去られたのであった。そのうえ、財閥解体によって、航空機を生産していた会社のほとんどが複数の会社に分割され、技術者も分散していった。さらに決定的だったのは、それまで航空機工業を支えていた陸海軍が消滅してしまったことである。
対日講和条約の発効を間近にひかえた1952年(昭和27)年4月9日、GHQは「兵器、航空機の生産禁止令」を解除し、許可制に改める旨、通告した。これによって日本の航空機工業は自主的に航空機の生産と研究を
再開することができるようになった。
復興をめざす政府は、航空再開と同時に、通産省通商機械局に航空機生産行政に関する特別調査会を設け、昭和27年8月には重工業局に航空機課が新設された。これらの一連の動きのなかで、同年7月、「航空機製造法」が制定・公布された。そして8月には、同施行令、ついで昭和28年1月には同施行規則が制定・施行され、ここに航空機工業再開への道が開かれた。
『日本の暦』より
現在でも制空権が自由にならない日本。
漁業権が邪魔をして海上自衛隊も有事の際に自由に軍港を設けることができないので、制海権も自由になりません。この漁業権も占領政策の一環として導入されたものです。
また自衛隊も日米安全保障条約に縛られており、日本が独自の判断で自衛隊を動かすこともできません。
依然として占領体制の中に置かれているようです。
ラベル:
日本の暦
2010年11月17日水曜日
『日本の暦』の写真 汽車道から
『日本の暦』の写真の紹介です。
どの季節だったか忘れてしまいましたが、屋形船なので夏でしょうか。
桜木町からワールドポーターズの前を通って赤レンガ倉庫へ向かうに行く汽車道で撮影したものです。
屋形船から聞こえるカラオケがかなりの大音量で、酔っ払って熱唱している歌声がよく聞こえます。中にはかなり音程が外れた人もいて、汽車道を歩いている人が大笑いしている光景がなんとも可笑しいです。
どの季節だったか忘れてしまいましたが、屋形船なので夏でしょうか。
桜木町からワールドポーターズの前を通って赤レンガ倉庫へ向かうに行く汽車道で撮影したものです。
屋形船から聞こえるカラオケがかなりの大音量で、酔っ払って熱唱している歌声がよく聞こえます。中にはかなり音程が外れた人もいて、汽車道を歩いている人が大笑いしている光景がなんとも可笑しいです。
2010年11月16日火曜日
今日は何の日? 奄美群島日本復帰
今日は陛下が記念式典の出席された際のお言葉の紹介です。
【おことば】
平成15年11月16日(日)(奄美振興会館)
本日,ここ名瀬市において,多くの関係者と共に,奄美群島日本復帰50周年記念式典に臨むことを誠に喜ばしく思います。
奄美群島は,先の大戦の後,昭和21年に日本本土から分離され,米国の施政下に置かれました。昭和27年4月,日本と連合国との平和条約が発効しましたが,この状況に変わりはありませんでした。群島挙げての復帰運動がようやく実を結び,ついに日本に返還されたのは,それから1年半以上経った昭和28年12月25日のことでありました。復帰運動に携わった多くの人々の労苦はいかばかりのものであったかとしのばれます。日本人の多くが,この復帰を平和条約に続くうれしいことと喜びをもって迎えたことが思い起こされます。
私どもは,復帰から15年を経た昭和43年,鹿児島市で行われた明治百年記念式典に出席した機会に,奄美大島を訪れ,また,それから4年後,昭和47年鹿児島県で行われた第27回国民体育大会夏季大会出席の機会には,徳之島を訪れました。これらの島々への訪問は,懐かしい思い出として私どもの心に残りました。それとともに,島の生活の厳しい状況にも理解を深めることができました。ハブが島民に及ぼす影響の実例について聞いたことも思い起こされます。
私どもが奄美大島を訪問してから35年の月日が経ちました。今日,島は,当時に比べ,社会基盤が良く整備され,生活が向上してきていると聞いております。永年にわたり,奄美群島の発展に力を尽くした多くの人々に対し,ここに深く敬意を表します。
奄美群島はアマミノクロウサギやルリカケスを始めとして,群島にのみ生息する生物が多くいることで特徴づけられます。しかし,島の生物は個体数が限られ,環境の変化にも決して強いものではなく絶滅が心配されます。特にオオトラツグミは百羽程度しかおらず,極めて厳しい状況にあると言われております。島の人々の生活に配慮しながらこれらの貴重な生物を守っていくことは極めて大切なことと思います。
奄美群島日本復帰50周年の機会に,島民皆が,復帰運動に取り組み,これを成し遂げた先達の努力に思いをいたし,島の特性を生かして,様々な面で島を豊かにしていくよう願っています。
終わりに,奄美群島の一層の発展と島の人々の幸せを祈り,お祝いの言葉といたします。
『日本の暦』より
天皇皇后両陛下はこのような式典や外国から来た要人とお会いになる際に、失礼のないように史実や国際情勢などをお調べになっているようで、読んでみると勉強になることが多いです。
宮内庁のホームページには天皇皇后両陛下のお言葉がたくさん掲載されていますので、読んでみると面白いですよ。
【おことば】
平成15年11月16日(日)(奄美振興会館)
本日,ここ名瀬市において,多くの関係者と共に,奄美群島日本復帰50周年記念式典に臨むことを誠に喜ばしく思います。
奄美群島は,先の大戦の後,昭和21年に日本本土から分離され,米国の施政下に置かれました。昭和27年4月,日本と連合国との平和条約が発効しましたが,この状況に変わりはありませんでした。群島挙げての復帰運動がようやく実を結び,ついに日本に返還されたのは,それから1年半以上経った昭和28年12月25日のことでありました。復帰運動に携わった多くの人々の労苦はいかばかりのものであったかとしのばれます。日本人の多くが,この復帰を平和条約に続くうれしいことと喜びをもって迎えたことが思い起こされます。
私どもは,復帰から15年を経た昭和43年,鹿児島市で行われた明治百年記念式典に出席した機会に,奄美大島を訪れ,また,それから4年後,昭和47年鹿児島県で行われた第27回国民体育大会夏季大会出席の機会には,徳之島を訪れました。これらの島々への訪問は,懐かしい思い出として私どもの心に残りました。それとともに,島の生活の厳しい状況にも理解を深めることができました。ハブが島民に及ぼす影響の実例について聞いたことも思い起こされます。
私どもが奄美大島を訪問してから35年の月日が経ちました。今日,島は,当時に比べ,社会基盤が良く整備され,生活が向上してきていると聞いております。永年にわたり,奄美群島の発展に力を尽くした多くの人々に対し,ここに深く敬意を表します。
奄美群島はアマミノクロウサギやルリカケスを始めとして,群島にのみ生息する生物が多くいることで特徴づけられます。しかし,島の生物は個体数が限られ,環境の変化にも決して強いものではなく絶滅が心配されます。特にオオトラツグミは百羽程度しかおらず,極めて厳しい状況にあると言われております。島の人々の生活に配慮しながらこれらの貴重な生物を守っていくことは極めて大切なことと思います。
奄美群島日本復帰50周年の機会に,島民皆が,復帰運動に取り組み,これを成し遂げた先達の努力に思いをいたし,島の特性を生かして,様々な面で島を豊かにしていくよう願っています。
終わりに,奄美群島の一層の発展と島の人々の幸せを祈り,お祝いの言葉といたします。
『日本の暦』より
天皇皇后両陛下はこのような式典や外国から来た要人とお会いになる際に、失礼のないように史実や国際情勢などをお調べになっているようで、読んでみると勉強になることが多いです。
宮内庁のホームページには天皇皇后両陛下のお言葉がたくさん掲載されていますので、読んでみると面白いですよ。
ラベル:
日本の暦
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