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2010年12月4日土曜日

黒船を見た途端、黒船を造った日本人

メーリングリストからの転載です。


「黒船を見た途端、黒船を造った日本人」

幕末の1853年、ペリーの黒船が来航して来ました。

当時、黒船に乗った白人は、世界中に行き来しましたが、黒船を見た途端、黒船を造ったのは日本人だけです。

しかも3つの藩が造りました。
薩摩藩、佐賀藩、宇和島藩です。

別に白人の指導を受けたわけではありません。
もちろん、イギリスやアメリカの船と同じような立派なものであったわけではありません。

しかし、それまで幕府の禁制のため、自由な発展ができなかった自然科学の分野において、当時の最先端技術である蒸気船を自力で作れるほどに、人知が進んでいたのです。

1854年、日米和親条約締結の前後、日本人はしばしば黒船を訪れます。
アメリカ人は、「野蛮国」の日本人がさぞ驚くであろうと、最先端の機械などを次々見せるのですが、日本人は一向に驚きません。

そして興味深そうに何でも触りたがり、要所要所では懐から帳面を取り出してスケッチしました。
それにはアメリカ人は呆れました。


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当時の日本人は、既に長崎の出島を通じて、西洋の書物が入ってきており、あらかた読んで知っていたのです。

そして「自分達だって造ろうと思えば造れる」と言う自信があったから、怯んだりしない、ただ実物は初めてだったので、興味津々だったのです。

しかし、工業技術の差の大きいことには日本人は愕然としましたが、しかし絶望はしませんでした。

鎖国の平安の中で、寝過ぎただけだとの心境です。
だからこそ、黒船を自作してしまう藩が現れたのです。


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宇和島藩は10万石の小藩に過ぎませんでしたが、藩主伊達宗城は、殖産興業を主とする藩政改革を進め、長州から村田蔵六(後の大村益二郎、明治陸軍の祖)を招き、黒船の建造を命じます。

医学と蘭語の知識しかなかった蔵六が、蒸気タービンの開発を託したのが、宇和島の提灯づくりの職人嘉蔵でした。
嘉蔵は、黒船を見ないことには始まらないと、長崎に勉強に行きます。

長崎から帰国した嘉蔵を迎えて、蒸気船建造に本格的に着手したのは、ペリー来航2年後の1855年です。

そして失敗を繰り返しながら、1859年に蒸気船が完成し、試運転が行われました。

船は、蒸気により動き出したのです。

ペリー来航後6年後に、3藩が前後して蒸気船を完成させたのです。


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日本人以外の有色人種は、西洋文明に接して、挑戦不可能と思うか、あるいは反発心のあまり、西洋文明を否定したり、西洋文明から逃避するような態度を取りました。

しかし当時の日本人は、西洋文明には追いつけないというような絶望感は微塵にもなかったのです。


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1543年、種子島に鉄砲が伝来した時もそうでした。

鉄砲は、インディオの文化を消し、エジプト、トルコ、インド、東南アジア、シナを制覇しました。

東洋における最大の先進国はシナの明でしたが、鉄砲の製造技術はほとんど発展しませんでした。

しかし日本人は、この鉄砲の軍事的な威力をすぐに理解し、たちまち製造し改良して、大量生産を始めるのです。

そして織田信長は、三河長篠での武田の騎馬武者との戦いで、本場ヨーロッパでもなかった「3段撃ち」という近代的用法まで考案しました。


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このように日本人は、知力の高さ、やればできるという敢闘精神、職人尊重の精神、新しい環境に対応できる社会の発展の土壌などで、日本史の中で躍動しているのです。

そのDNAを今も私たちは持っていると言えるのではないでしょうか。

(参考文献:渡部昇一「かくて歴史は始まる」クレスト社刊、その他)

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