日本が日本であるために Headline

2010年9月29日水曜日

無料アプリ『日本の暦』 for iPhoneの配布開始

アプリケーションの解説はこちら。


http://love2nippon.blogspot.com/2010/09/nippon-calendar-ver-10.html

本日、AppStoreにて公開されました。
無料アプリなのでダウンロードして遊んでみてください。

ダウンロードはこちら。
バージョンアップに伴いこのアプリの取り扱いは終了しました。
http://itunes.apple.com/jp/app/id393778230?mt=8

今日は何の日? 日中国交正常化

日中国交正常化とは、日本と中国共産党率いる中華人民共和国とが国交を結ぶこととなった出来事である。
1972年9月29日、中華人民共和国の北京で行われた「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式において田中角栄、周恩来両首相が署名したことにより成立した。なお、日中共同声明に基づき、日本はそれまで国交のあった中華民国に断交を通告した。

ところで、この声明の中には「戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は~」という件がある。つまりこの調印によって日中間の戦争状態が終結したことを意味し、いわばそれ以前は停戦状態ではあっても法的には戦争状態は続いていたということになる。1952年(昭和27年)サンフランシスコ平和条約において、我が国は主権を回復したものの、日本はいまだ交戦権を持たない国家である。(1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法の9条第2項では「国交戦権はこれを認めない」とある)この9条の解釈は、とくに様々である。交戦権においては「国際法において交戦国に認められている権利(Belligerent Rights)」をいうとする説が多数説であり、また政府見解も「交戦者として戦時国際法上認められている権利」をいうとしている。交戦権とは単に戦争をする権利、ということではなく、戦争に付随するその戦争の始まりから終わりまでのいっさいの行動全般の権利を指す。とするならば、憲法9条第2項において我が国は、戦争を終結する講和を結ぶ権利は認められていないということになる。
更に、我が国は日中国交正常化と同時に、台湾の中華民国政府(国民政府)との国交を断絶し、日華平和条約(1952年4月調印)は失効した。日華平和条約とは、日本と中華民国の間の第二次世界大戦における戦争状態を終結した条約(第1条)であった。端的に述べれば、これは戦争状態の終結を破棄したことを意味し、現実的には台湾と戦争状態にはないものの、法的には一旦終結させた戦争を取り消した=宣戦布告という解釈も可能になる出来事であった。

日本国憲法
Chapter II. Renunciation of War
第2章 戦争の放棄

Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2) In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

このような憲法9条を保持しながら、日中国交正常化における一連の我が国の行為の矛盾をどう捉えるべきなのか。この矛盾をいつまでも放置できるものなのか。残念ながらこの件についての議論は活発ではありません。

ちなみに日本国憲法には英語と日本語の両方が現存しているそうです。
まるでニ国間の条約のようですね。

2010年9月28日火曜日

今日は何の日? 宮沢俊義「ポツダム宣言ニ基ク憲法、同付属法令改正要点」

1945年9月28日、宮沢俊義東大教授が外務省で憲法改正問題について講演した。明治憲法のもとでも、十分、民主主義的傾向を助成しうると論じ、明治憲法の手直しで、ポツダム宣言の精神を実現して行くことが可能だとの見解を示した。この時の宮沢の見解は、のちに自身が主要メンバーとなる憲法問題調査委員会の審議や「憲法改正案」(乙案)に反映されている。 宮沢俊義は日本国憲法成立の説明理論として、八月革命説を提唱した憲法学者ですが、占領中には革命などは起きていないこと、公職追放を恐れて持論を曲げて、GHQによって作られた日本国憲法を是認する立場に変節したのではないかとも言われている。


戦後何度も日本国憲法が憲法としては無効であるという声が出ています。調べてみると制定手続きの問題や法理論的に無効であるという理由がたくさんあるんですね。
現在では、日本国憲法を是認して何としてでも改正してはならないという護憲派、日本国憲法を是認した上で一部を修正しようとする改憲派、そもそも日本国憲法が無効だとする無効派の3つの集団に分かれていますが、戦後体制を是とする護憲派・改憲派と戦後体制が占領体制であることからそれを否とする無効派の2つの集団に分かれているという見方もできます。

2010年9月27日月曜日

今日は何の日? 昭和天皇が初めてマッカーサーを訪問した時の話

9月27日午前9時50分、昭和天皇を乗せた車がアメリカ大使館公邸に向かって皇居を出発した。
シルクハット、モーニングで正装した昭和天皇の表情は、同行した通訳は「非常に厳しいお顔だった」と回想している。
作家の工藤美代子さん「まず側近は、生きて帰れるかどうか心配したんですね。陛下は、決死の覚悟で乗り込んだわけです。日本の運命と自分自身、皇族の運命がかかっていましたからね」。

午前10時、車は、マッカーサーの待つアメリカ大使公邸の門をくぐった。大使公邸の玄関には、マッカーサーの姿はなく、出迎えたのは2人の副官だけだった。マッカーサーは、この時、出迎えも見送りもしないと決めていたのである。昭和天皇は、同行したくない大臣などと次の間で別れ、通訳と二人だけで奥の部屋に向かった。

写真撮影のあと、2人の会見が始まった。その場で、どのような会話が交わされたのか、日米両国の政府は、未だに何も発表していない。しかし、マッカーサーは、回想記にこの日の模様を記している。

「天皇の話はこうだった。

『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。
あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』

――大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。
私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)

35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は変わっていた。
マッカーサーは、予定を変えて、自ら昭和天皇を玄関まで送った。マッカーサーにとって、最大の好意の表れだった。

翌日、日本の新聞は、昭和天皇とマッカーサーの会見を一斉に報道したが、写真は、不敬にあたるとして掲載が禁じられた。GHQは、直ちに禁止処分を取りやめさせて、写真の掲載を指示した。会見の翌々日、写真は、新聞の一面に掲載された。そして、日本中の人々に衝撃を与えた。作家高見順は「かかる写真は、誠に古今未曾有」と怒りをあらわにした。昭和天皇とマッカーサーの記念写真は、日本の国民に、あらためて敗戦を実感させるものだったのである。

今日は何の日? 横浜ベイブリッジ開通

横浜ベイブリッジ(よこはまベイブリッジ)は、1989年(平成元年)9月27日に開通した神奈川県横浜市にある長さ860m(中央支間長460m)の斜張橋(吊り橋)である。東京港方面と横浜港を結ぶ港湾物流の一端を担うことにより、都市部の渋滞を緩和する重要な輸送路である。

本牧埠頭A突堤(中区)と大黒埠頭(鶴見区)とを結んでおり、上層部は首都高速湾岸線で、下層部は国道357号となっている。大黒ふ頭側には橋脚の道路下にある展望台までの遊歩道「横浜スカイウォーク」(有料)があり、大型客船の通過時などは迫力のある風景を見学することができる。上層部の制限速度は、開通当初は70km/hだったが現在は80km/hになっている。

横浜ベイブリッジ(首都高速道路株式会社)
http://www.shutoko.jp/service/spot/baybridge/index.html

横浜ベイブリッジ スカイウォーク
http://www.skywalk.city.yokohama.jp/

2010年9月25日土曜日

竹島領有権問題を国際司法裁判所に提訴

我が国は、韓国による「李承晩ライン」の設定以降、韓国側が行う竹島の領有権の主張、漁業従事、巡視船に対する射撃、構築物の設置等につき、累次にわたり抗議を積み重ね、この問題の平和的手段による解決を図るべく、1954(昭和29)年、口上書をもって竹島の領有権問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案した。しかし、同年10月、韓国はこの提案を拒否。また、1962(昭和37)年3月の日韓外相会談の際にも、小坂善太郎外務大臣より崔徳新韓国外務部長官に対し、本件問題を国際司法裁判所に付託することを提案したが、韓国はこれを受け入れず、現在に至っている。
国際司法裁判所は、紛争の両当事者が同裁判所において解決を求めるという合意があって初めて動き出すという仕組みになっている。したがって、仮に我が国が一方的に提訴を行ったとしても、韓国側がこれに応ずる義務はなく、韓国が自主的に応じない限り国際司法裁判所の管轄権は設定されない。

1954年に韓国を訪問したヴァン・フリート大使の帰国報告(1986年公開)には、米国は、竹島は日本領であると考えているが、本件を国際司法裁判所に付託するのが適当であるとの立場であり、この提案を韓国に非公式に行ったが、韓国は、「独島」は鬱陵島の一部であると反論したとの趣旨が記されている。
サンフランシスコ平和条約起草過程では、韓国は、日本が放棄すべき領土に竹島を含めるよう要請したが、米国は竹島が日本の管轄下にあるとして拒否されている。

今日は何の日? 不思議な事件

1971年(昭和46年)9月25日、1970年(昭和45年)11月25日に割腹自殺をしてなくなった作家、三島由紀夫の遺骨が、東京府中市の多摩霊園から骨壷ごと盗まれる事件が起こった。その2ヶ月後、同墓地内の数メートル離れた土中から発見され、遺族に返された。

『三島由紀夫の遺骨盗まる』~多磨霊園 狂信者の犯行か~ S45・9・25
昨年11月陸上自衛隊東部方面総監部に乗り込み、割腹自殺した作家の三島由紀夫(本名、平岡公威)の遺骨が、 東京・府中市の多磨霊園にある墓から骨ツボごと盗まれたことがわかり、府中署は25日墳墓発掘、遺骨領特得の疑いで捜査を始めた。 三島夫人の平岡瑶子(34)が墓参にきて、墓をいじった形跡があるのを発見、同霊園管理事務所長らに調査を頼んでいたもので、 府中署は25日朝5時半から墓を開いて実況検分した結果、遺骨が消えているのを確認した。 同署は熱狂的な三島崇拝者が遺骨を持ち去ったとの見方を強めているが、盗まれた目的などはわからず、 今のところ手がかりはないという。

『帰ってきた三島の遺骨』~墓から39mの土中に~ S45・12・6
非番の捜査官「もしや」の努力実る。さる9月、東京・府中市の多磨霊園から何者かに盗まれ、 ミステリーとして注目されていた作家三島由紀夫の遺骨は、5日午後、三島由紀夫の墓から約40m離れた盛土の中から、 およそ2ヶ月半ぶりに発見された。盗んだ犯人が自発的に返したものと、捜査当局は見ているが、 その背後関係ははっきりせず、「三島遺骨事件」は依然謎に包まれている。

<昭和46年9月25日・12月6日の盗難事件を伝える読売新聞から抜粋>

2010年9月24日金曜日

今日は何の日? 像のインディラ

動物園といえば象。昔はそういう人が多かったそうです。
長い鼻がなんともユニークで、大きくて優しい目をしていてとても強そうな動物。

1949年(昭和24年)9月24日、インド象のインディラが来日しました。 この年の春、東京・台東区の子供たちが、インドのネール首相あてに「象をください」と手紙を出しました。 上野公園には戦前、三頭の象がいましたが、空襲に備えて戦時中に処分されていたんですね。
そんな子供たちの象を見たいという願いを聞き届け、インドのネール首相はさっそくインディラ(後の首相 インディラ・ガンジー)と首相の令嬢の名をつけたメスの象を贈ってくれました。 インディラは9月25日に上野動物園に到着し、 動物園には9万2000人の入園者が殺到したそうです。

インドのネール首相は戦前戦中の日本の奮闘に感激を覚えたとして次のように語っています。

「20世紀の初め、アジアの精神に大きな影響を及ぼした事件が起こった。それはロシアが日本と戦って負ける事である。あのちっぽけな日本が、ヨーロッパのうちでも最大の、最強の国の一つであるロシアを破ったという事は、多くの人々を驚かせた。アジア人にとって、これは嬉しい驚きであった。私は今でも日本の勝利のニュースが伝えられる度ごとに、どんなに感激したかをまざまざと覚えている。

「長い間、インド人はイギリス人に対する劣等感にとらわれていた。イギリス人の長い間の支配や、1875年の反乱の野蛮な弾圧が、それを養ったのだ。兵器法によって、インド人は武装が禁じられていた。彼らに与えられた教育までが、彼らに劣等感を与えた。そしてヨーロッパ人は、アジア全体が一つの残された大陸であり、将来長くヨーロッパ人の支配を受けるものだと思い込んでいた。それゆえ、日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった。そしてインドでは、我々が長くとらわれていた劣等感を、取り除いてくれたのである。」

日本は大東亜戦争が始まるずっと前に国際社会に対して人種差別撤廃を訴えていましたが、当時は白人至上主義とも呼びたくなるような状況が続いていました。
日本が戦争に突入する動機はさまざまありましたが、そういう経緯を考えると「白人支配から東亜を解放する」という志もあったと言えるかもしれません。


2010年9月23日木曜日

今日は何の日? 秋分の日

今日は秋分の日です。


この日は皇霊殿で「秋季皇霊祭」、神殿で「秋季神殿祭」が行われる日ですが、私も含めてこれらの宮中祭祀のことはあまり知らない人が多いのではないかと思い、少し調べてまとめてみました。


宮中祭祀の起源は、『日本書記』に記されている「神勅(しんちょく)」に求めることができます。
簡単にまとめるとこんな感じでしょうか?


1.天孫降臨(てんそんこうりん)の際の天照大神(あまてらすおおみかみ)の言葉


「此の宝鏡を視まさむこと、常に吾を視るがごとくすべし。ともに床(みあらか)を同(おなじ)くし殿を共にして、齋鏡(いはひのかがみ)とすべし」


これは「この宝鏡を私だと思って宮中に祀るように」という意味です。
ちなみに宝鏡は崇神天皇の御代に天照大神の神霊は宮中を離れ、鏡を奉じた倭姫命(やまとひめのみこと)によって伊勢へご鎮座されることになります。


2.高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の言葉
「天津神離(あまつひもろぎ)および天津磐境(あまついはさか)を起し樹てて、まさに吾孫(すめみま)の為に斎(いわ)ひ奉(まつ)らむ」
これは、「神の御座所としてお鎮まりになるところを立てて天孫のために祀ろう」とう意味で、神宮・神社の起源を示しています。
3.天照大神が宝鏡を授けられたのに続いておっしゃった言葉
「高天原(たかまのはら)に所御(きこしめす)齋庭(ゆには)の穂(いなほ)を以(もち)て、亦(また)吾(あが)児(みこ)に御(まか)せまつるべし」
これは、食物として地上で栽培するようにとの趣旨で、天照大神が天孫に種籾(たねもみ)を授けられたもので、宮中祭祀第一の祭典である大嘗祭(だいじょうさい)、新嘗祭(にいなめさい)の起源が示されています。
祭祀は、大宝元年(701)に制定された大宝律令から延長5年(927)制定の延喜式にいたり、現在のような体系的な祭祀の基礎が完成されました。律令時代には祈年(きねん)祭、月次(つきなみ)祭、新嘗祭が重視され、また大嘗祭、伊勢の神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)も最大の祭儀として、成立しています。
宮中祭祀の基本姿勢は、13世紀前半の順徳天皇(第84代)が著された『禁秘抄』の冒頭に書かれています。
「一、賢所(かしこどころ)。凡(およ)そ禁中の作法、神事を先にし、他事を後にす。旦暮あけくれ敬神之叡慮解怠(えいりょけたい)無く白地(あから)さまにも神宮竝(なら)びに内侍所(ないしどころ)の方を以て、御跡(みあと)と為(な)さず」という一文に尽きています。
この意味は「宮中の作法はまず第一に神事、その後に他のことがあって、朝夕に神を敬い、かりそめにも伊勢の神宮、また賢所に足を向けて休むようなことがあってはならない」というものです。
現在も行われている祭祀は、宮中祭祀は天皇自ら祭典を行われ、「お告文(つげぶみ=祝詞)」を奏上する大祭、掌典長が祭典を行い、陛下は拝礼される小祭、その他の祭儀の三つにわけられます。
大祭
元始祭(げんしさい=1月3日)
昭和天皇祭(先帝祭=1月7日)
春季皇霊祭・春季神殿祭(春分の日)
神武天皇祭(4月3日)
秋季皇霊祭・秋季神殿祭(秋分の日)
神嘗祭(かんなめさい=10月17日)
新嘗祭(11月23日)
新嘗祭は『古事記』の中にすでにその伝承を示す歌が見いだせる、大祭の中で唯一古代から受け継がれた重要な宮中祭祀です。
小祭
歳旦祭(さいたんさい=1月1日)
孝明天皇例祭(1月30日)
祈年祭(2月17日)
香淳皇后例祭(6月16日)
明治天皇例祭(7月30日)
賢所御神楽(12月上旬)
天長祭(12月23日)
大正天皇例祭(12月25日)
祈年祭は、農作業の開始を祝い、豊作を祈るお祭りとして、新嘗祭と対になっています。
その他
四方拝(1月1日)
奏事始(そうじはじめ=1月4日)
鎮魂祭(11月2日)
節折・大祓(よおり・おおはらえ=6月30日と12月31日)
除夜祭(12月31日)
毎朝御代拝、旬祭(毎月1日、11日、21日)
歴代天皇式年祭
これらは恒例の祭典ですが、それ以外にも、ご結婚、ご誕生などに関して、臨時の祭典が行われることもあります。このうち、四方拝は元日の未明、天皇陛下が伊勢の神宮や四方の神々などをご遥拝し、その年の五穀豊穣と国家、国民の安寧を祈られます。天皇のみが行う、代行できない重大な儀式です。

2010年9月22日水曜日

ラジオコードの話

『日本の暦』は学校の授業で教わることの少ない事柄を集めているので、集めた歴史上の出来事は日露戦争以降の戦争に関わることが多くなっています。

米国占領軍は日本を戦争ができない国にするため、2度と歯向かってこないようにするため、あらゆる手段を講じて日本を封じ込める政策を展開していきます。
その一環が「ラジオコード指令」です。
1945年(昭和20年)9月22日に、連合国に対する批判を封じ込めるため、連合国に対する批判や動静に関する報道が禁止されました。
日本人には言論の自由がなかったんですね。

ちなみに、よく「国際連合(国連)」と表現されていますが、国連の正式名称はUnited Nations(連合国)です。言葉一つで印象が随分と違います。
国連という呼称を用いると、あたかも国際的な中立機関のような印象を受けますが、もともとは日独伊の枢軸国と戦うための組織で、日本は敵国であるという敵国条項(国連憲章第53、107条)が定められています。
1995年の国連総会でこれらの条項を削除する決議案は賛成多数で可決されていますが、批准されていないために未だに残っている条項です。
敵国条項では、連合国の敵国であった日本などの国が再び侵略行為(と見なされる)を行った場合は、他の国は安保理の承認なしに武力行使ができると規定しています。
ポツダム宣言を受諾し、日本人に主権のない中で所謂「日本国憲法」が制定され、サンフランシスコ講和条約により日本は主権を回復しました。この所謂「日本国憲法」の9条には「一切の交戦権を認めない」と書かれています。


交戦権というものの中には宣戦布告し戦争を開始することに始まって、講和によって戦争を集結するまでの一切の権利が含まれていると解釈できます。
憲法制定からサンフランシスコ講和条約の締結という時間軸を考えたときに、所謂「日本国憲法」には講和条約を締結する力はなかったと考えることもでき、ここに大きな矛盾を感じないわけにはいきません。


2010年9月20日月曜日

今日は何の日? 教科書の墨塗り

1945年9月20日、教科書の墨塗りから始まった日です。
文部省はこの日に次官通牒「終戦ニ伴フ教科用図書取扱方ニ関スル件」を出し、戦前的な事柄が書かれていた教材の全部又は部分の削除を指示し、教科書の墨塗りが行われました。
当時はGHQにあがなうことができない状況でしたので、腑に落ちない、何とも情けない作業であったことでしょう。
どんな民族や国にもそれぞれの歴史や伝統があって、その中で人々の価値観が形成されていきます。
当時はGHQによる情報や思想の統制が敷かれて、教科書だけではなく、放送や新聞、個人の手紙までが検閲の対象にされました。何かにつけて自由を謳うアメリカですが、敗戦国の人々の自由はなかったんですね。
戦後60年以上がたって、多くの日本人がこの体制の中で、元々あったのとは違う価値観をなんとなく受け入れているのかもしれません。そしてそれに疑問も持たないで生きている。
戦争に負けることは、その時に多くの人の命が失われることだけではなく、後世の人々の価値観まで変えてしまうんですね。
今日はそんな事を考えました。

皇紀

『日本の暦』では今日の日付を皇紀2670年XX月XX日のように表示しています。
実はこの「神武天皇即位紀元」は現在でも法律上生きています。
神武天皇即位紀元は閏年の根拠として使われており、明治31年に出された置閏法を定めた勅令第九十号が現在の閏年の根拠になっています。

2010年9月19日日曜日

『日本の暦』 - Nippon Calendar ver 1.0

『日本の暦』ver 1.0はiPhone用に作られたカレンダーアプリケーションです。

日本の歴史の中から日付が確定できて、学校の授業ではあまり教わることのない出来事や、祝日、宮中祭儀、天皇皇后両陛下のお言葉などを月ごとにまとめて表示します。

操作は簡単。アイコンをタップして起動すると、その月の出来事が一覧表示されるので、興味のある項目を選んで詳細を見る。ただそれだけです。
検索機能もありますので、興味のある単語などで出来事を検索することもできます。
詳細情報を表示する画面には、iPhoneの標準カレンダーに出来事を転記するボタンが用意されています。

『日本の暦』はインターネット上のカレンダーサービスからデータを取り込んでiPhoneの中に保存します。そのため、アプリケーションを最初に起動したときは、データの保存のために長い時間がかかりますが、それ以降は、更新されたデータだけを読み込むようになっています。
今後もカレンダーのデータの更新は続けコンテンツを充実させていきたいと思っています。

このアプリケーションで使われているデータ、写真、グラフィックスなどはすべてボランティアスタッフによって用意されました。
本アプリケーションのリリースに際して、ご協力いただいた皆様に感謝いたします。
尚、歴史通の方でデータの入力をボランティアでお手伝いいただける方を募集していますので、関心のある方は love2nippon@gmail.com 宛にメールをいただければ幸いですが、本ブログ上での歴史論争や誹謗中傷はご遠慮ください。
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